信濃/ | 小諸城 |
ファイルNo0968 |
@ こもろじょう |
道案内 | |||
上信越自動車道の小諸インタより県道79号線で小諸市内へ向かい本町の信号で右折し県道40号線に入り、200mほどでしなの鉄道のガードをくぐってすぐを左折し、その先の懐古園の有料駐車場に行きます。 (あるいは上信越高速道佐久インタから国道141号線に出て3Km先の平原の信号で左折し国道18号線に入り、四ツ谷の信号で斜め左へ小諸市内で向かいます。(国道141号線/国道18号線旧道) 3Km先が小諸駅付近で、その先の本町の信号を左折します。) |
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訪城備忘録 | |||
長野県でメジャーな城では最後まで行けなかった城でした。訪れたときには大手門が修復工事中で見ることができませんでした。しかし、リベンジ訪城で見学できました。現在の大手門は慶長十七年(1612年)に仙石秀久が建てたとされ、一階の堅固さに比べ、二階は居館形式という特長をもっています。 小諸城は城下町より本丸が高低差として低い位置にあるめずらしい城で穴城と言われます。三の丸や鍋郭が市街化したため際立ってしまった感じです。三の丸門(明和二年(1765年)再建の門)から二の丸・本丸へと進みます。この範囲は扇状の台地で両サイド及び本丸背後が崖(谷)になっていて、木谷、北谷、西谷と呼ばれる深く長い谷になってます。河川段丘上に作られた戦国期の城の縄張りを残しています。三の門より重厚な石垣が残り見応えがあります。(ここの石垣は積み直しとの事ですが) 二の門から北丸と南丸が両サイドにあります。こういう配置も小諸城の特徴のようです。本丸手前、黒門前の黒門橋の架かる堀切は今も深く本丸と馬場の部分が他の郭と完全に切り離された領域になっています。天守台は野面積みの石垣ですが、これも見栄えのする堂々とした天守台でした。 |
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平安末期、木曽義仲の武将であった小室太郎光兼が現小諸城の東に館を構え、代々小室氏が居住したようですが、長享元年(1487年)に大井伊賀守光忠が鍋蓋城(のちの小諸城鍋郭)を築城します。 その後、光忠の子の光為は鍋蓋城の支城として乙女城(白鶴城)<のちの小諸城二の丸>を築城、その他支城群も築きました。天文二十三年(1554年)の武田信玄の侵攻で小諸城は武田方持城となり、現在の本丸から鍋蓋城までをひとつの城に拡充され、小山田備中守昌行が守備しました。天正十年(1582年)に武田信玄が滅んだ後、徳川方の城となり、松平(依田)康国が城主となります。 天正十八年(1590年)に仙石秀久が入封し、現在の小諸城の姿に改修しました。仙石氏は秀久の子忠政の時代の元和八年(1622年)に上田城に移封となり、徳川家光の弟の松平忠長が領有後、寛永元年(1624年)に松平憲良が入封、その後、青山宗俊、酒井忠能など城主めまぐるしく変わりましたが、元禄十五年(1702年)に牧野康重が一万五千石で入封すると牧野氏が10代続いて明治維新を迎えました。 |
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