東三河の城013/ 

                                                                               

佐脇城 0192
城址碑
A宝飯郡御津町下佐脇郷中   B正眼寺    C平城
豊橋市街地より国道23号線から県道375号線に入り、23号線と平行に走る県道384号線に入ります。柳橋を越えて下佐脇の集落の中を走り、ちょうど中間点付近に右にパン屋さんがある。その店の20m手前に両側プロック塀の路地を入ります。お寺(正眼寺)の前を通り過ぎると工場跡地の正門鉄門に至ります。この前に説明板があります。工場跡地は完全に整地されていますが正門より左手に庭の跡の木立があり、そこに城址碑があります。工場は倒産したとの事で、工場跡地は200m四方のけっこう広い敷地。そこに城址碑のある庭のみが整地された敷地の中にポツンとあるという感じで、なにかもの悲しい雰囲気です。現在は工場跡地には新興住宅が立ち並んでいるらしいです

F遺構等:碑・説明板  G室町期/佐脇氏  H満足度:凸
南北朝期に佐脇氏の居城でありましたが、戦国期、今川氏の勢力化で作手奥平氏の支配下にありました。今川義元の敗死後、今川氏は対松平元康(徳川家康)の進攻防御のため、八幡砦とこの佐脇を砦としました。佐脇砦には三浦左馬助義就が守備しましたが、永禄5年(1562年)に落城し、松平氏は佐脇安信に守備させます。その後いったん今川氏に奪還されますが、永禄七年に再び松平氏が奪い返し佐脇刀袮大夫が守りますが、佐脇刀袮大夫が長篠の戦いで討死し、城も廃城となりました。<現地説明板・資料 参考>

J訪城:2002/07
御馬城 (おんまじょう) 0193
城址碑
A宝飯郡御津町御馬浜田     C平城   
豊橋市街地より国道23号線を蒲郡方面に進み、御馬の交差点をすぎて2つ目の八幡神社の信号を右に曲がります。100mほどで新幹線のガードをくぐるとガード下、右に城址碑があります。

F遺構等:碑・説明板  G室町期/細川氏  H満足度:凸
応安二年(1369年)将軍足利義満が細川頼之に命じ、頼之はさらに細川頼有に命じて築城させたものです。文明年間に落城し荒廃しますが、寛永年間(1624〜86年)に長沢松平の庶流である松平浄感が居館として利用しました。浄感が主君松平定綱が桑名に移封に際し、この地を去り廃城となりました。<現地案内板より>

J訪城:2002/07
竹本城 0191

A宝飯郡御津町広石船山     B 碑・説明板

豊橋から来ると国道23号線 入浜の信号を右折し県道31号線に入ります。東海道線の陸橋を越えて、為当町市木の信号にて県道31号線は右/バイパス、左/旧道に分かれます。左旧道に入り、一つ目の信号為当町の信号を左折し県道373号線に入り、次の広石の信号で右折し県道372号線に入ります。この道を500mほど行くと左にカーブとなり、堀底を通る感じになる右手小高いところが神社となっており、ここが城跡です。県道の切通しのような部分は堀切跡のようです。県道の城址碑とは反対側の住宅地の中に土塁の痕跡も残るようですが確認していません。

F遺構等:碑・説明板  G南北朝期〜/竹本氏  H満足度:凸
南北朝期に竹本政季が築きました。竹本成久は今川義元の敗死に際し、帰農したようです。さらに、天正期には長沢松平氏が領し、家臣山田氏が居住しました。 <現地案内板より>
現地説明板には書かれていませんが、近くの茂松城の平時の居館の役目のあったと考えられます。それは、牧野氏の御津支配の平時の城と考えられます。

J訪城:2002/07