東三河の城014/ 

                                                                               

半原藩邸 1391a
城址碑
跡地
A新城市富岡      C平城
東名高速道豊川インタより国道151号線を新城方面に北上します。10Km先の杉山北の信号で右折し国道301号線に入り、500m先の杉山の信号で左折、さらに500m先の橋向の信号右折し国道301号線は新城橋で豊川を渡ります。渡ると庭野の信号で右折し1.5Km先の野田城大橋前でで左折します。(最近、野田城大橋が完成したので、国道151号線の稲木の信号(杉山北の1.5Km手前)で右折し1.2Km先で野田城大橋です。) 野田城大橋より3.5Km先が八名農協前の信号で、右手、八名中、八名小を越えます。800m先で(八名郵便局の先、交番のすぐ先)の路地に右折した先です。(あるいは豊橋市街地より県道31号線を進み和田辻の信号(国道362号線と交差)より県道81号線に入りそのまま北上します。富岡の信号で左折し国道301号線に入り、600m先、交番手前の路地に左折します。) 新城市の白い城址碑と説明板があるだけで遺構はありません。

F遺構等:碑・説明板  G江戸期/安部氏  H満足度:凸

静岡の安部氏一族で、今川氏に属した後、徳川氏に従い、天正十八年(1590年)に家康の関東移封に従い、安部氏も武蔵岡部に移りました。関が原の戦い以後、武蔵岡部に加え三河半原、摂津桜井にも領地を拝領し合計二万石の大名となり、三箇所に陣屋を構えました。慶応四年には藩を岡部から半原に移して以後、廃藩となりました。 <現地案内板より>

J訪城:2006/04
望月屋敷 1391b
望月屋敷外観
A新城市黒田 B黒田公民館    C屋敷
東名高速道豊川インタより国道151号線を新城方面に北上します。10Km先の杉山北の信号で右折し国道301号線に入り、500m先の杉山の信号で左折、さらに500m先の橋向の信号右折し国道301号線は新城橋で豊川を渡ります。渡ると庭野の信号で右折し1.5Km先の野田城大橋前で左折します。(野田城大橋が完成したので、国道151号線の稲木の信号(杉山北の1.5Km手前)で右折し1.2Km先で野田城大橋です。) 野田城大橋より3.5Km先が八名農協前の信号で、(右手に八名中、八名小があります)この信号を左折し、1.2Km先で黒田公民館前で左折し、さらに500m進んだ左手にあります。(あるいは豊橋市街地より県道31号線を進み、和田辻の信号(国道362号線と交差)より県道81号線に入りそのまま北上します。富岡の信号で左折し国道301号線に入り、1.4Km先が八名農協の信号です。) 江戸期の民家が残ります。この母屋は元禄二年(1689年)に建てられたものです。釜屋建てという屋根が分割された変わった建物(分棟形)です。

F遺構等:江戸期建物<重要文化財>G戦国期〜/望月氏  
H満足度:凸
武田氏に従っていた望月氏が長篠の戦いの敗戦後に信州には帰らずにここに留まり帰農したものです。初代は望月四郎と言われています。

J訪城:2006/04
道目記城(どうめき) 1393
城址碑
A新城市杉山  B千郷中学校  C丘城
東名高速道豊川インタを下り、国道151号線を新城方面に向かいます。川田の信号で直進(国道はバイパスとなり左折であるが信号を直進します)し、2.5Km先の左手道沿いに碑が立っています。道路沿いに碑があるのみですが、後方は河川段丘の上になり城地という感じがします。現在はメーカーの寮や中学校が建っています。
F遺構等:碑  G戦国期/菅沼氏  H満足度:凸
別名、市々浪城・杉山古城とも言われます。永禄年間に菅沼定氏が築城したとされます。元亀四年(1573年)に武田信玄が野田城を攻撃した際にはこの城も布陣しました。

J訪城:2006/04