東三河の城002/ 

                                                                               

牛久保城 0126
城址碑
山本勘助の墓
大林勘左衛門屋敷
A豊川市牛久保町 B飯田線牛久保駅  C 平城

東名豊川ICから国道151号線を豊橋方面に進み、城下の信号を右折し、一つ目の信号(県道400号線)の城跡を右折、250m先で駅に向かう道を左折し、牛久保駅の踏切手前に城址碑があります。踏み切りを渡り1kmほど行った長谷寺に武田信玄の家臣の山本勘助の墓があります。ここの墓は遺髪を納めたもののようです

F遺構等:碑・説明板  G戦国期/牧野氏  H満足度:凸
享禄二年(1529年) 牧野古白の子、成勝が築いたものです。 その後、牧野成定は松平氏に従い、さらに、牧野康成の時、天正18年に家康の関東移封に従い、この地を離れます。(のちの長岡藩藩祖となります) 池田輝政家臣荒尾氏が入り最終的には慶長5年(1600年)に廃城となったようです。

山本勘助:出目については駿河説、三河説などありますが、三河説では明応九年(1500年)に八名郡賀茂村(現:豊橋市賀茂町)に山本藤七郎の三男として生まれ、幼名を源助と言いました。十五歳の時に牛久保牧野家の家臣大林勘左衛門の養子となり大林勘助貞幸と名乗りました。二十六歳で諸国漫遊に出て、三十六歳で戻って来ましたが大林家に実子が出来ていたため、養家を離れ関東に出て、四十五歳の時に武田信玄に仕えたとされます。永禄四年(1561年)に川中島にて討死しています。勘助と親交があった長谷寺の念宗和尚が死を悼み遺髪を納め墓を建てたとされます。 <現地案内板より>
長谷寺→

長谷寺手前の道路沿いに大林勘左衛門屋敷跡の碑があります。

J訪城:2003/04
一色城 0127
一色城の土塁
今川義元の墓
A豊川市牛久保町    B大聖寺
C平城
牛久保城址碑より踏切を渡り、二つ目の路地を右折、4つ目くらいの路地を右折すると大聖寺です。道が狭いので注意してください。この大聖寺には今川義元の墓(胴塚)と一色刑部少輔時家の墓があります。墓の背後は土塁らしきき感じです。さらに、大聖寺より200mほど路地を進んだ右手に高さ2mほどの明瞭な土塁が残ります。

F:土塁・説明板(一色時家・今川義元の墓) G室町期/一色氏  
H満足度:凸
永享年間(1428年〜)頃の三河守護一色氏の本城です。牛久保城が築城された後は牛久保城城内に取り込まれたものです。

今川義元の墓(胴塚):永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで織田信長に破れ討死した首を失った胴体を家臣が背負いこの地まで運びました。この大聖寺に葬ってとりあえず手水鉢を置きました。永禄六年(1563年)に子の氏真がこの寺で三回忌に法要を営み、この寺を位牌所としました。 <現地案内板より>

J訪城:2003/04
松平館 0131
田園の中の土塁
A豊川市大木町  旧:宝飯郡一宮町大木
C平城
豊川ICより国道151号線、砥鹿神社前を左折し三河一宮駅前を右折、すぐに左折し踏切を渡り、また、すぐに左折、県道498号線を500mほど進んで右折、篠田北の信号を右折したところが大木集落です。左手の民家の裏手の田圃に出ると唐突に3m程度の土塁の一部が残ります。

F:土塁  G室町期/松平氏  
H満足度:凸
松平兵庫助の居館と伝えられます。

J訪城:2002/09