尾張/ 長田屋敷
野間大坊



ファイルNo1225

       大御堂寺本堂  

@ おさだやしき 
  別名 

A住所:知多郡美浜町野間
B目標地点:野間大坊・大御堂寺
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:梅林・田畑

F遺構等:なし(標識有り)
G時代/人物:平安期/長田氏
H満足度: 凸☆
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  野間大坊の東5分

J撮影・訪問時期:2005年09月・2023年07月

  

道案内  

南知多道路の南知多インタから県道52号線・県道276号線・県道275号線と来て、善法寺のところで左折し国道247号線に入り、1Km先の野間小学校前を過ぎて、200m先を左折した500m先が野間大坊(内海大御堂寺)です。 
 
訪城備忘録

長田屋敷は畑になっており遺構は無いです。野間大坊は正式には大御堂寺であり、通称が野間大坊という事のようです。大御堂寺本堂横には源義朝の墓があります。義朝は平治の乱で平清盛に敗れ、東国に落ちのびる際に家臣である長田氏を頼ってこの地に寄ったものでありますが、長田氏に風呂を勧められ湯殿に入った際に殺害されました。この時、木刀でもあれば戦えたものをと言ったとされ、そのため、義朝の墓には木刀をかたどった木片が奉納され、墓を覆っています。義朝のお墓のそばに織田信孝の墓もあります。 境内には「血の池」という場所があり、義朝が長田親子に殺害されたときに義朝の首を洗った池とされます。 加えて、長田屋敷跡の手前の山側に入っていくと枯れた松がありますが、この松を「磔の松」といいく、長田親子が源頼朝の命で磔にされた場所とされます。

野間大坊客殿は本殿とも呼ぶようです。この客殿(本殿)は当地の説明板には寛永年間(1624〜44年)に伏見城の殿舎の一部を移築されたものと書かれていますが、愛知県の文化財のホームページを見ると江戸初期の建物とはありますが伏見城からの移築という記述がありません。


長田屋敷跡標識
歴史

平治元年(1160年)の平治の乱で平清盛に敗れた源義朝らは、家臣の鎌田政家の義父である長田忠致の屋敷に身を寄せましたが、忠致・景致父子の寝返りで義朝は湯殿で殺され、正家もまた殺害されました。後に、頼朝が挙兵した後、長田氏は頼朝に従い、平家討伐に従軍しましたが、平家滅亡後に、頼朝から磔の刑に処せられました。さらに、織田信長の三男の織田信孝の墓もあります。信孝は本能寺の変後に柴田勝家と連携し豊臣秀吉に対立しましたが、賤ケ岳の戦いで勝家が破れて北ノ庄城で自害後に降伏し、織田信雄の命でこの野間大坊に入り、信雄より命によりここで自害しました。

 源頼朝寄進の山門         鐘楼堂
  
客殿(本殿)外観
客殿(本殿)内庭から
源義朝の墓        織田信孝の墓
源義朝の墓
鎌田政家夫妻の墓      山門を境内より
血の池          (長田親子)磔の松
上野間城 3953  
@ かみのまじょう
  別名 

A住所:知多郡美浜町上野間
B目標地点:上野間小学校
C形式:丘城  D比高:20m 
E現況:学校

F遺構等:なし
G時代/人物:ーー期/ーー氏
H満足度:

I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  1分


J撮影・訪問時期:2023年07月

現在は小学校にあり、体育館周囲が城山と呼ばれたようですが、大きく改変されているため、遺構はないです。 城史についても不明のようです。

 

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