尾張の城028  

                                                                               

光明寺城  0593
城址碑

光明寺
A一宮市光明寺町本郷
B光明寺の西側の住宅地の中
国道22号線で東海北陸道の一宮木曽川インタを越えて岐阜方面に向かい、黒田西石原の信号で右折し県道182号線に入ります。1.2km先の光明寺の信号手前100mで左折し光明寺まで行きます。ここから少し西側の住宅街に入ったところに城址碑があります。

C平城
F遺構等:碑
G戦国期/神戸氏 
H満足度:凸
永禄年間(1558年〜69年)の始に織田信長の家臣の神戸伯耆守が築城したとされます。神戸氏は永禄十二年(1568年)に伊勢で討死し、その後は山田半兵衛が入りますが翌年には廃城になったようです。なお、ここの光明寺は徳川家康の「家康」の名の由来の地になるらしいです。

J訪城:2003/06
  
浮野城  0546
浮野合戦碑
A一宮市千秋町浮野
B
国道22号線の富士3の信号から国道155号線に入り、1.4km先も南小淵の信号で左折し県道154号線に入ります。1.5km先の浮野の信号を越え、300m先の路地を右折した先に浮野古戦場跡があり、この周辺に城があったとされます。

C平城
F遺構等:浮野合戦碑と説明板
G戦国期/織田氏 
H満足度:凸
宝徳三年(1451年)頃、守護代であった織田敏広(岩倉城)が守護代職を失い、新たに守護代となった織田敏定(清洲城)と対立、文明十一年(1479年)に両者は和睦して以後、上四郡と下四郡の分割支配となっていました。時代は織田信長の時となり、弘治元年(1555年)、清洲城主であった織田彦五郎を信長が殺害し、自ら清洲城に入りました。信長は永禄元年(1558年)に岩倉城の織田信安と浮野にて戦い、これを破り、翌年に岩倉城は落城させ尾張を統一しました。

J訪城:2002/08
   
兼松屋敷  0592 
A一宮市島村
B
国道22号線で東海北陸道の一宮木曽川インタから名古屋方面に300mほど進んだ高田池尻の信号で左折し、600m先の高田の信号(県道150号線との交差)を越え、さらに400m先を左折し先の葉栗保育園の裏手にご子孫のお宅が有ります。なお、東山植物園の也有園の西側に名古屋市内にあった兼松家の屋敷門が移築されているようです。

C平城
F遺構等:なし 
G戦国期/兼松氏 
H満足度:凸
織田信長の家臣の兼松又四郎正吉が居住したところで、本能寺の変の後は羽柴秀吉、徳川家康に仕えました。尾張に松平忠吉が入封して後は、松平忠吉、徳川義直に仕え、尾張藩士として続きました。
J訪城:2003/06