尾張の城026  

                                                                               

田中砦  0615
城址碑

A小牧市東田中
B東田中三ツ山会館・三ツ山古墳
東名高速道の小牧インタを下り、国道41号線を犬山方面に出ます。300m先の村中の信号で右折し国道155号線に入ります。2.1km先の小松原の信号を越え、名鉄線を渡って250m先の三ツ山会館前の信号の右手が城跡です。ここは三ツ山古墳であり、ここに城址碑があります。

C平城
F遺構等:碑・説明板 
G戦国期/蒲生氏 
H満足度:凸
天正十二年(1584年)の小牧長久手の戦いの際の豊臣方の砦です。守将は蒲生氏郷、堀秀政、細川忠興らであったとされます。

J訪城:2004/07
  
小松寺山砦  0616
城址碑
A小牧市小松寺
B小松寺・神明社
東名高速道の小牧インタを下り、国道41号線を犬山方面に出ます。300m先の村中の信号で右折し国道155号線に入ります。2.1km先の小松原の信号を左折し県道102号線に入ります。1.3km先の久保新町の信号で右折し県道27号線に入ります。500m先の味岡中学校北の信号を左折し、400m先右手が小松寺です。小高いところに城址碑があります。

C平城
F遺構等:石碑・説明板
G戦国期/丹羽氏 
H満足度:凸
天正十二年(1584年)の小牧長久手の戦いの際の豊臣方の砦です。守将は丹羽長秀・三次(豊臣)秀次らであったとされます。

J訪城:2004/07
   
林通勝邸・沖村城  1459 
城址碑
A北名古屋市沖村 
 旧:西春日井郡西春町
B松林寺
名古屋市内から国道22号線で来ると中之郷南で右折し県道62号線に入ります。1km先の沖村西の信号を越え、150m先の路地に右折し、200m先が松林寺です。城址碑が建つものです。

C平城
F遺構等:碑 
G−−期/林氏 
H満足度:凸
林通勝と長年通説で言われていますが、林佐渡守秀貞が正しいようです。父は通安、子は通政、弟に美作守通具となります。織田弾正忠家の四家老の一人として信秀、信長に仕えました。その後、信忠に仕えましたが、天正八年(1580年)に信長に追放され、同年没しました。

J訪城:2006/03
  
九之坪城  2022
城址碑と説明板
A北名古屋市九之坪 
 旧:西春日井郡西春町
B北名古屋健康ドーム・ぶれあいの家
名古屋市内から国道22号線で来ると中之郷南で右折し県道62号線に入ります。2.8km先の白山の信号で右折し、北名古屋健康ドームの正門側へクランク状(100m先を右、50m先を左、250m先を右折)に進みます。北名古屋健康ドームの向かいがふれあいの家でこの前に碑と説明板があります。
C平城
F遺構等:碑 
G−−期/簗田氏 
H満足度:凸
築城時期、築城者は不明ですが、この地方の土豪が築き此壺城(このつぼ)と称していたとされます。その後、簗田政綱が入りますが、政綱は最初は斯波氏に従っていましたが、主家衰退の中、織田信長に従い、戦功によりこの地を与えられ、旧館城を改修し、九之坪城としたようです。簗田出羽守政綱は永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いの際、今川義元の動静を探り、勝利に貢献したと称され、信長より沓掛城を与えられました。天正三年(1575年)に加賀の大聖寺城・日谷城の守将となり、加賀一向一揆に対峙します。以後、政綱の動静は定かではありません。子の広正は信長の推挙により九州の名族の別喜姓を下賜され、以降別喜右近あるいは戸次広正と名乗っています。しかし、加賀一揆平定に失敗し、尾張に召還され、それ以後の動静は定かではありません。

J訪城:2008/11