道案内  |
豊田市中心部国道155号線と国道153号線合流交差点の神田1の信号、その先の国道153号線・国道248号線及び国道301号線の合流交差点の元城町2の信号より、国道301号線で松平郷(豊田市)・旧:下山方面に進みます。東海環状道の豊田松平インター前を越え、さらに国道301号線(国道475号線と併用)を約1km先、松平橋を渡り、そのまま国道301号線新道を直進します。約2.5Km先を右折し約1km山道を登ります。登りから下りにかかる付近の右側に大給城の登城口の標識があります。駐車場は登城口200m手前に第一駐車場、さらに200m手前に第二駐車場があります。登城口より歩き出し尾根にでますと、右手方向は松平乗元の墓、左手に進むと大給城の入口に至ります。
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訪城備忘録 |
三河でお勧めのお城です。三河では少ない石垣を多用した城ですし、なにより、各郭の配置、土塁・石垣の造形は美しさを感じます。本丸周辺の石垣・土塁も見所ですが、登ってきた最初に見る堀切と虎口石垣もいいし、なんと言っても水の手郭の遺構は貯水機能と防御機能を持っていたためのなんともいえないうねりを見せていて、美しささえある土の景観です。
訪城記
約10年ぶりに再訪しました。やっぱり三河の山城では突出している遺構の城の一つです。 城域東側端に左手に堀切と城址碑@のあるところから進みます。左に曲がると石垣痕跡のある虎口を越えて登りながら右にカーブしてしていくと三郭の南の虎口に至ります。この虎口の両サイドにも石垣が残ります。三郭内は東側から北側へ土塁が巡ります。三郭から西側へ登ります。登りきると石垣の障壁があり左に折れて進みます。 この石垣の障壁は主郭と二郭を隔てる壁です。石垣の北端は下の帯郭へ石垣が繋がっています。 二郭は三郭側に円弧の土塁があります。主郭側は西端に巨石があり、ここから豊田市内が遠望できます。
主要部(主郭・二郭・三郭)の南下、三の郭南側から西側下へ細い道が繋がりますが、その先には館跡と言われる広い平坦地があります。この斜面側にも至る所に石垣の痕跡があります。この南側斜面は巨石も多いです。さらに館跡から西端へ進むと主郭の西下の位置に岩盤を削りこんだ大堀切があります。主郭側斜面は高くて相当な急な岩盤斜面です。実は何回もこの城に来ててこの堀切は今まで見てなかったっす。^^;
主要部に戻って北側へ降りていきます。この城最大の特長の水の手と呼ばれる区域です。幅のある大きな貯水池のような空間で、全体的に北側への斜面になっていて、真ん中には砂防ダムのような仕切りの土塁(土手)の壁があります。この土塁の底部は石垣になってます。仕切り土塁から北側の下半分の空間にはさらに掘り込んだ大穴のような箇所もあります。水の手の北端にも土塁が巡り、その外側はけっこうな段差になっていて、切岸には石垣が積まれてます。水の手の仕切り土塁(土手)から東へ行くとまた石垣の障壁があります。この先に進むと土塁の向こうには大きな片堀切になっていて側面が石垣になってます。これは、城域の東端から入って右回りに攻めてくる敵を防御するためのものと考えます。
大給城は三河全体の覇者の城ではありませんが、周囲の城に比べると規模も大きく、単なる松平氏一族の城ではないですね。武田氏侵攻の防御ラインとしての大要塞という感じですし、小牧長久手の戦いのときにも改修されているのかもしれません。主郭の西の岩場から豊田の花火大会の花火が遠望できます。夏の夜にがんばって来て見るのも一興ですし、春は桜、秋は紅葉と季節も楽しませてくれます。
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主郭城址碑A
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初期大給城は長坂新左衛門の居城でしたが、岩津城に進出した松平信光が攻略し、親忠の次男乗元が初代城主となり大給松平氏となります。四代親乗の時に周辺へ勢力拡大を図り滝脇松平氏の滝脇城、松平氏の発祥地松平郷も手中にし、宗家に対立しました。五代真乗は逆に宗家家康に忠節を尽くしました。この頃、武田氏侵攻の脅威に備え本丸周辺は総石垣の大改修がなされ、大給松平氏の城と言うより宗家家康の拠点となっていきました。六代家乗の時に家康の関東移封に従い上州に移り、大給城は廃城となりました (資料より)
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