道案内 ←城山公園駐車場(登り口) ←城跡 |
熊野尾鷲道路の賀田インタを下り、県道に出たら右折し海の方へ向かいます。古川沿いを約4km進むと信号で右折し古川の橋を渡ります。約1.2km先右手が曽根郷土資料館です。 さらに300m先の道神橋のバス停付近で右折します。約50m先(左手に公衆トイレあり)を右折し小さな橋を渡り、すぐに左折します。約700m先の二股を左手方向に進み、約400m先(標識あり)で左折し登りきると城山公園駐車場です。
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訪城備忘録 |
城山公園からきちんとした遊歩道があります。途中、東屋があり、そこに隅立て四つ目の家紋の付いた旗がたなびいてます。相当にくたびれた旗でしたが^^; 山上の尾根に向かって登って行きます。尾根まで登ると左手方向が城跡です。城域手前に薄い堀切状の窪みがあり、その先に明瞭な堀切があって橋が架かってます。橋の先に郭があって「つつじが城」の石碑が建ってます。その先に再び薄い堀切状があって土塁跡のような高まりを越えると主郭です。その先は一段低くなって副郭があり、ここに井戸も残ります。さらに一段下に東屋があって眺望が開けます。このまま左回りに遊歩道を行くと山桜、鯨石を越えると橋の架かる堀切に戻ります。堀側面などに石積みが残りますが遺構なのかなという感じです。 集落内に曽根氏館(弾正屋敷)があるようですが、探してみましたがわかりませんでした。
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駐車場の説明板
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弘治年間(1555〜58年)、近江佐々木氏の一族の佐々木宇右衛門が近江より曽根に移住し曽根弾正を名乗り、集落内に居館を築き、詰め城として曽根城を築城したとされます。新宮の堀内氏善は尾鷲の三木城(現在の三木小学校)を天正三年(1575年)<城主は三鬼新八郎>と天正六年(1578年)<三鬼氏が滅亡後は紀伊長島城の加藤甚五郎が城主>に攻めましたが、曽根氏は堀内氏に味方したとされます。その後、弾正の孫の久三郎は関ケ原の戦いで西軍に味方したため曽根氏は没落したようです。曽根町の東端の向井地墓地には弾正、弾正夫人、弾正の子のものと思われる五輪塔があるようです。
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