道案内 |
伊勢自動車道の玉城インタを下り、玉城インタ入口の信号を左折し県道530号線を進みます。約2.5km先、勝田西の信号で左折し県道13号線に入ります。約5.8km先、野中の信号で右折し県道119号線に入ります。約2km先、笠木北のバス停付近で右折します。方向的には御船神社に向かう感じでです。右折後500m先の左手に説明板があります。手前右手には真念寺というお寺があります。
|
訪城備忘録 |
館は台地の南北に広がり、郭数で40程度、井戸だけでも20程度あるそうです。説明板は南側道路沿い民家の横にありました。この周辺を中屋敷というようです。また、館の外周には「笠木御所」の案内標識、古井戸注意の標識が何カ所かあります。館域内は鬱蒼とした竹藪で堀底道が北に向かい奥に伸びています。途中で東西の堀底道もあり、倒れた竹が邪魔したりで探索の気持ちが薄れます。郭を形成する土塁が両サイドで壁になったりしていますが、なにせ竹藪で、縄張り図を持っていても自分がどこにいるのかもよくわからん状態でした。運よく笠木御所の石碑には到達しましたが、井戸は結局ひとつも見つけられませんでした。館域の北端にはL字に空堀形状も残ってます。ただただ広域で方形郭が連なっていると印象ですが、どこまでが遺構なのか判別しかねました。きりがないので早々に退散したです。
|
説明板
|
|
築城者、築城時期は定かではないようですが、北畠氏一族の坂内氏の館と考えられます。寛正年間(1461〜66年)、坂内具能(ともよし)がこの地を知行してる史料があるようです。また、文明十五年(1483年)には国司北畠政勝の弟の坂内房郷の名も史料にはありようです。永禄十二年(1569年)、織田信長は大河内城に北畠具教を攻めますが、和睦の条件として信長の次男の信雄を具教の養子に入れました。その際、具教、具房親子は笠木御所に退去したと「信長公記」にあるようです。天正四年(1576年)、具教は三瀬館で信長の指示で信雄の手のものに誅殺され、この時の笠木館の主である坂内兵庫頭具義も田丸城で殺されました。
|