道案内 |
名阪国道の上野インターで下り、約2.5km先、伊賀上野城の西側、西大手の信号で左折します 道なりに1.2km先で長田橋を渡ります。長田橋から約700m先の十字路で左折します。約250m、長田小学校手前で右折し道なりに200m行った右手に「芭蕉の森公園」の駐車場があります。駐車場の道を挟んで反対側の説明板の裏手に小道があり、そこから登ります。
<あるいは、伊賀上野中心部から国道163号で西に向かい、新長田橋から400m先が長田の信号、さらに500m先の信号の先で斜め左に入ると長田小学校の道です。>
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訪城備忘録 |
長田小学校のグランドの南側が長田保育所で、その南側の畑地が伝:百田氏館ですが、遺構はありません。ここに山に向かう道があり、ここを登ると砂防ダムのところまで登り、そこに架かる橋から斜め右に登ると主郭東の郭に登れます。私はこのルートで行きましたが、道案内で書いたように芭蕉の森公園の駐車場の説明板の裏手の小道を畑沿いに進み、途中から山へのつづら道を登ると神社のところに至ります。こちらの方が楽ですし安全ですね。帰りはこの道で帰ってきました。 さて、城跡ですが、神社の南側上に登ると城跡の主郭です。東側に土塁が確認でき、その先にU字に土塁が巡る細長い郭があります。この先の斜面にも段郭があります。主郭に戻り、南へ進むと大きな堀切があり、山側とを遮断しています。思った以上にしっかりした遺構でした。
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この説明板の裏手の道を行く
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築城時期は定かではありません。百田藤兵衛は十二評定衆のひとりとして、天正六年(1578年)の第一次天正伊賀の乱で築城中の織田氏方の丸山城を攻撃し破却、天正九年(1581年)の第二次天正伊賀の乱では比自山城に籠城し、福喜多将監とともに大将として一揆衆を指揮、自身も長田丸を守備し、伊賀衆でありながら織田氏に従った耳須弥次郎を打ち取ったとされます。しかし、形勢不利と判断して比自山城を放棄し柏原城に退き、最後の抵抗をこの城で行いました。戦い後の消息は定かではないようです。
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