伊勢 山田野城



ファイルNo3029

明瞭な土塁を巡る主郭と馬出し状の張り出し郭が残る

          主郭内を北側土塁上から

@ やまだのじょう 
  別名  

A住所:津市白山町山田野
    旧:一志郡白山町

B目標地点:
C形式:山城  D比高:80m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・堀切
G時代/人物:戦国期/長野氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  小さな溜池から20分

J撮影・訪問時期:2015年11月

  

道案内 

伊勢自動車道の久居インタを下り、国道165号線を西に進みます。約15km先、近鉄大阪線の大三駅そばの大三の信号で左折し県道663号線に入ります。約2.5km先の川口で右折し県道15号線に入ります。約5km先、名松線家城駅を右手に過ぎて400m先、南家城の信号を逆V方向に右折します。約2km先(途中から県道29号線に入ってます)の信号でいったん右折し、すぐまた右折し県道29号線を進みます。約2km先の下司名のバス停付近で左折し細い道を600m先に溜池があり、その先を北の方向に150mほど道なき所を進み、直登した先の東側が城跡です。(実のところ、この山田野地区からでは無く、反対側の八対野地区から私立青山高校の南の広大な別荘地廃墟の一番東側の張り出し道から入るとすぐです)。この道に入るには県道664号線の八対野3区のバス停そばから左手に入り、妙相寺の前を右手に進み、川沿いをまで行き、川沿いの100mほど右手に進み、小さな橋を渡り、渡ったらすぐ右に曲がり、約3.5km先で左手に大きな溜池が見えた先でY字を左方向に進み、200m先を左折し道なりに300m進んだ最後のU字カーブのところから東に下りて行くと100m先が城跡です。)
 
訪城備忘録

城跡は卵型の主郭を高い土塁が巡り、南に明瞭な虎口があり、虎口の前面には虎口郭とも呼べる空間があります。西側は一段下がり、二の郭と思われる広大な平坦地が二段の郭があります。東側下にもさらに低いところに平坦地があり、これは南側へ回り込んでいるようで、屋敷地のようです。主郭北側には堀切があり、その先は櫓台のような盛り上りがあります。 虎口と虎口郭の西側の低い土塁の一角(虎口郭から二の郭に下りる虎口付近)に石積みの跡だろうかと思わせる石が数個埋まっています。 わりと戦国後期まで使用された城で、当地の実力者の居城であるようです。 しかし、城とは関係ないのですが、城跡の西側に広がる広大な区域は縦横に道がある別荘地?の廃墟のような地域。あればなんなんだろ? 原野商法?それとも、開発したものの人が住めなかったなんらかの利用があったのかな? 実はこの謎のエリアを彷徨って城跡より南西側の尾根にどう見ても城跡の遺構のような地域があります。出城かと思わせます。主郭の郭は低い土塁が巡り両サイドを堀切が隔てているという構造で、堀切の尾根側は削平は甘いものの幅があり、兵站地を思わせます。これって城跡遺構ではないのか??

虎口側西土塁
歴史

長野左京進(亮)が天正年間(1573〜92年)に築城したとされます。長野左京進は北畠具教の家臣であり、永禄十一年(1568年)、織田信長が伊勢に進行し、北畠氏は大河内城に籠城しましたが、その際、左京進は奮戦しました。しかし、北畠氏が織田氏陣営に吸収され、左京進も信雄の家臣となります。天正四年(1576年)、三瀬館に隠居していた具教を左京進は、柘植、滝川らと殺害しています。 それ以後にこの地を与えられ築城したと思われます。 北畠(織田)信雄と羽柴(豊臣)秀吉が対立した天正十二年(1584年)には信雄から蒲生氏郷を通じて秀吉方に寝返ったとされます。しかし、同年、不和であった家所氏に殺害されたとされます。その後、城は織田信包が守岡金助にこの城を与えたとされます。

北側の堀切       主郭を巡り土塁
虎口から主郭を見る
主郭虎口前の郭(虎口郭)    虎口郭から主郭
    西側の郭          西側の郭から主郭土塁と虎口郭
北側堀切        東側下郭と竪堀を見る
堀切から主郭土塁(切岸)     西側の郭の全景
西側から主郭と手前は西側の郭
遠望
城の位置と謎の遺構の位置(マピオン地図を加工)
 謎の遺構??
尾根側堀切状
(主)郭と低い土塁                     尾根先端側の堀切
尾根先端側
横から     尾根先端側堀切状   尾根先端側から

近くの城・関連の城:家城城・真見城