伊賀/ 稲増氏城
附:川合氏城・稲増氏屋敷



ファイルNo1771

浅井長政正室のお市の方の生存の伝承のある地区

            県道沿い集会所横から見た城跡遠景  

@ いなますしじょう 
  別名 

A住所:伊賀市下友田
    旧:阿山郡阿山町

B目標地点:下友田集会所
C形式:丘城  D比高:30m 
E現況:宅地・山林

F遺構等:郭・土塁・堀
G時代/人物:室町期/稲増氏
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  集会所から10分
J撮影・訪問時期:2007年09月
         (2021年1月)

  

道案内  

名阪国道(国道25号線)壬生野インターを下り、県道679号線で北に進みます。1Km先の西之沢の信号で国道25号線旧道を横切り、直進して県道49号線に入ります。2.7Km先の田んぼの中の信号で右折し県道673号線に入ります。2.4Km先に下友田集会所が右手にあります。この集会所の裏手の川の反対側の丘陵先端が城跡です。

訪城備忘録

集会所の50m手前に橋があって川を渡り、50m先に左折する路地が城跡まで続いています。県道から見ると雑木林にしか見えなかったのですが、この路地は副郭に建っている民家の専用道路でした。登って行ったら民家の庭先に入ってしまいました。正面が一段高く主郭で、三方を土塁が巡ります。許可無く歩き回るわけにも行かずで、1枚だけ写真を撮らせてもらい早々に退散しました。チラ見ですが、高台の主郭・副郭(民家のある場所)だけでなく、主郭南側の段も郭跡に見えます。また、稲増氏城の西には川合氏城がありますが、遺構の状態はあまりよくないようで土塁が残っているようです。

この地区には織田信長の妹のお市の方の生存の伝承があります。

主郭側土塁
歴史

室町期<文明元年(1469年)>に稲増帯刀厩が居城したと伝わるようです。天正九年(1581年)の天正伊賀の乱では稲増氏は近郷の豪族と雨乞山砦に立て籠もり、織田方の蒲生氏郷の軍に抵抗したとされます。

お市の方生存伝説

織田信長の妹(諸説あり)で、浅井長政に嫁いだお市の方、天正元年(1573年)、小谷城落城後、美濃に戻り、その後、天正十年(1582年)、本能寺の変で信長が横死し、清須会議後に柴田勝家に再嫁し、北ノ庄城(越前)に移りましたが、天正十一年(1583年)、賤ケ岳の戦いで敗れた勝家は北ノ庄城で羽柴秀吉軍に包囲され、城に火をかけて自刀しました。その際、夫人のお市の方も共にしたとされるのが通説です。勝家の墓所は福井市の西光寺にあり、お市の方も合祀されているという事になってます。しかし、お市の方は北ノ庄城落城しに城を脱出、足羽川を船で下り三国湊の勝久寺から三国湊の豪商である森田家に匿われ、その後、近江を経て、伊賀の下友田の稲増家で暮らし、慶長四年(1599年)に亡くなったという伝承があります。この稲増家は浅井長政の家臣の浅井治郎左衛門が伊賀に流れて、名前を「日比」と改名した後さらに「稲増」に改名したとされます。 稲増家の菩提寺の浄光寺の墓地には古い墓碑の隣に「徳勝寺殿天英宗清大居士」と刻まれたわりと新しい墓碑があります。 「徳勝寺」は現在は長浜市内にある浅井氏三代の墓がある寺で、小谷城が健在な時は小谷城清水谷にあった浅井氏の菩提寺です。お市の方はこの下友田でなくなって長政の供養塔に一緒に葬られたらしいですが、墓碑は新しいので建て替えられた感じです。稲増家が引っ越されたかの際に建て替えられたのかもしれません。浄光寺の近くに稲増氏屋敷がありますが、今は廃屋になってます。県道挟んで反対側には稲増氏城があり、こちらは現在もお住まいになってます。稲増屋敷の稲増氏と稲増氏城の稲増氏との関係はよくわかりません。先に稲増氏城の稲増氏在住していて、その後、治郎左衛門が流れてきて日比と改名し、稲増氏一族と婚姻関係で稲増に再度改名したという事だろうか?治郎左衛門は長政の乱破であったようで、元々、忍術は会得していたとの伝承です。

浄光寺      稲増氏屋敷
川合氏城遠景(中央の茂み)       稲増氏屋敷     
稲増氏城遠景

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