伊勢/ 桑名城



ファイルNo1108

        三の丸から二の丸堀 

@ くわなじょう 
  別名 扇城 

A住所:桑名市吉之丸九華公園
B目標地点:九華公園 
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:公園・宅地・学校 

F遺構等:郭・水堀・説明板 
G時代/人物:江戸期/本多氏
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  九華公園有料駐車場から5分
J撮影・訪問時期:2000年07月・2004年05月
         2016年09月・2023年04月・10月

  
城址碑

【道案内】 

東名阪自動車道の桑名インタを下り、県道63号を桑名市街へ進みます。1.5Km先で国道258号を越え、県道504号に入り、さらに1.5Km先でJR線、近鉄線を陸橋で渡ります。陸橋から300mで国道1号線を越え、500m先の桑名港の信号で左折し県道613号線に入ります。600m先の田町の信号を右折して300m進んだ右手が九華公園で、左手に有料駐車場があります。



【訪城備忘録】

城郭遺構らしい石垣や土塁と言ったものもほとんど残っていない状況です。今は水堀の配置だけが、往時の城を語っています。ただ、三の丸外堀にあたる三の丸堀の東側の石垣は往時の石垣です。内堀公園そばから三の丸公園そばまで約600mの間とすいぶん長い距離が残っています。南側ではクランク状の水堀になってます。クランク状の南側の公園に石垣の説明板があります。(東側の石垣の堀に降りる石段にも説明板があります。この石段は明治期に作られた石段だそうです。)  石垣は乱積み・野面積みで一部打ち込みハギで積まれています。石垣をよく見ると刻印があり、団子の刻印紋、山の刻印などがあります。 

公園の本丸跡の入口に隅石垣のような石積みは移築された吉津屋御門と川口付近の石垣です。九華橋を渡った正面に小さな城址碑があり、旧本丸エリアの南側に神戸櫓跡と辰巳櫓跡の高まりがあります。神戸櫓は一柳氏が入った際に神戸城の天守を移築したと伝わり、本多氏が入封後はそのまま三重櫓として使われたようです。辰巳櫓も三重櫓で、元禄十四年(1701年)に天守が焼失後は天守代用とされたようです。現在、辰巳櫓跡には模擬の大砲が置いてあります。天守台跡には新たに石を積んで模擬天守台があります。その近くに水門管理所が蟠龍櫓風に建てられていました。

【歴史】

最初の築城は定かではありませんが、戦国時代に伊藤氏の東城があった場所とされます。豊臣期は一柳右近が再築城され、その後、氏家行広が城主で行広は二万二千石でした。関が原の戦い後の慶長六年(1601年)に本多忠勝が十万石で入り、旧の東城を中心に近世桑名城を築城しました。天守は四重六層でしたが元禄十四年(1701年)の大火で焼失し以後は再建されませんでした。本多家は忠勝の子の忠政の時に姫路に移り、元和三年(1617年)に久松松平氏が入り、、宝永七年(1710年)には奥平松平氏、文政六年(1823年)より久松松平氏が藩主となりました。幕末戊辰戦争の際(1868)、桑名藩は幕府方につき、藩主松平定敬は東北地方を転戦し、最後は五稜郭で降伏しました。その間に国元は新政府軍に降伏し、新政府軍は天守の代用であった三重の辰巳櫓を焼き払って桑名城落城のしるしとしました。その後桑名城の石垣は取り払われ、四日市港の資材とされました。 <現地案内板より>


   
  
吉津屋御門石垣(移築)
  
蟠龍櫓風
  
二の丸堀から
現地説明板より
本多忠勝像
   
       三の丸石垣説明板      春日神社銅鳥居としるべ石(左端石碑)
三の丸堀(南側)と石垣
三の丸堀(南側)と石垣
三の丸堀(南側)と石垣
三の丸堀(南側)と石垣
三の丸堀(南側)と石垣と説明板
三の丸堀(中央)と石垣
三の丸堀(中央)と石垣
三の丸堀(中央)と石垣<上の写真の拡大>と刻印と矢穴
三の丸堀(北側)と石垣
三の丸堀(北側)石垣
三の丸堀(北側)石垣 上部は積み直しが多いと思いますが、刻印のある石が積んである
三の丸堀(北側)と石垣
三の丸堀(北側)石垣
二の丸堀
吉津屋御門と川口付近の石垣(移築)
神戸櫓跡の高まり
模擬天守台
蟠龍櫓風
蟠龍櫓風
本多忠勝像
桜と堀
  

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奥平屋敷の水堀石垣      模擬天守台