道案内 |
伊勢自動車道の伊勢インターを下り、国道25号線に入ります。約4km先、通町インターの信号で右折し国道42号線に入ります。約20km先、真珠島・鳥羽水族館手前の信号で右折し近鉄鳥羽線のガードをくぐります。くぐってすぐの信号を左折、約200m先(郵便局の斜め前)の路地に左折します。約300m先の右手が三の丸広場です。ここに乗用車なら2台停められるスペースがあります。(車止めはないので、バックしすぎると石垣にぶつけますので注意) あるいは、ガードをくぐってそのまま100m直進した歴史文化ガイドセンター及びその周辺の有料駐車場に停めるがいいと思います。
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訪城備忘録 |
城跡は平成20年(2008年)まで鳥羽小学校があったり、家老屋敷には鳥羽幼稚園、それ以外も市役所など市街化し遺構は少ないです。現在は小学校も移転し、その後発掘調査等をされたようです。本丸西、南面、家老屋敷の石垣などが残るのみです。三の丸広場から見上げると段々畑のような石垣段がありますが、これは崩壊を防止するために構築されまもので遺構ではないようです。(せめて石は当時のもの??) 見付櫓、家臣屋敷があったところは城山公園の広場になっており、本丸のあった場所は旧鳥羽小学校の運動場などになっていたため今はただっ広い広場になってます。西側、南側に石垣が残ります。海城であったため、大手は海側でしたが今は国道42号線、鳥羽水族館側になってます。陸側の樋口門、相橋口門などは市街化しています。市役所の斜め向かい、市民会館の裏手に家老屋敷の石垣が残ります。この上は旧鳥羽幼稚園で、この背後にも石垣が残っているようですが見落としました。
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三の丸広場
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元々、橘氏の館があったようです。文禄三年(1594年)、九鬼嘉隆が築城し波切城より移りました。慶長二年(1597年)、嘉隆は家督を子の守隆に譲り隠居しましたが、慶長五年(1600年)の関ケ原の戦いでは西軍に付き、守隆は東軍に付きました。嘉隆は西軍敗北後に答志島に逃れ切腹しました。守隆が寛永九年(1632年)に死去した後、九鬼氏は家督相続争いが起き、そのため、幕府より摂津三田への転封を命ぜられ九鬼氏は鳥羽を去りました。寛永十年(1633年)、内藤忠重が常陸から入り内藤氏が三代続きます。この間に天守を造営お含む改修がされたようです。その後、土井氏、大給松平氏、板倉氏、戸田松平氏と城主が次々変わりましたが、享保十年(1725年)、稲垣昭賢(てるかた)が下野烏山から移封、以後、稲垣氏が八代続き明治維新を迎えました。
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