和泉 千石堀城



ファイルNo3574


               主郭下の堀状             

@ せんごくぼりじょう 
  別名  

A住所:貝塚市橋本〜名越
B目標地点:
C形式:丘城  D比高:30m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀・土塁?・堀切・説明板
G時代/人物:戦国期/根来衆
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  20分

J撮影・訪問時期:2019年07月

  

道案内    ←登り口

阪和自動車道の貝塚インタを下り、府道を進みます。約5km先の名越北の信号で左折します。約1.3km先が千石橋の信号でさらに200m先左がロータリー状になっていてここに左折します。奥に道に入りすぐの右手に小公園があります。小公園の奥が丘陵の切通のようになってます。この右手上が城跡です。

訪城備忘録

切通を入ってくと左手に「千石堀城跡」という標識があります。この左手を登ると展望台と標識のある平坦地に出て、ここにもう読めないくらい薄くなった説明板がありますが、ここは城跡ではなく、切通(堀切)を挟んだ反対側が城跡です。城跡には先ほどの小公園から切通に入ってすぐに右手に斜めに登るような小道があり、ここに入ります。5mも登ると堀状の地形があり、さらに上にわりと明瞭な堀状と土橋状の地形があります。この上が平坦地で主郭のようです。登ってきた主郭の反対側の尾根側には不明瞭ですがやはり堀状の地形が残りますが、いずれにしても明確な城跡遺構とは言い難い感じです。

説明板
歴史

築城時期は定かではありませんが、戦国期に根来衆が築城したとされます。天正五年(1577年)の織田信長の紀州攻めでは根来衆はこの城を放棄したようですが、その後再び根来衆が入ったようです。天正十三年(1585年)、豊臣秀吉の本格的な紀州攻めとなり、豊臣秀次を大将とする豊臣軍と千石堀城は大谷左大仁法印を大将としてこの地で戦い(千石堀城の戦い)ますが、豊臣軍の猛攻で落城しました。

主郭     切通(堀切?)
城跡遠望 (西側から)
  
主郭
堀状
堀状と手前土橋状
切通(堀切状〉と城跡標識

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