河内 | 飯盛城 |
ファイルNo2671 |
河内最大の山城
① いいもりじょう |
道案内 ←登り口/野崎観音 ←登り口/楠公寺(なんこうじ) ←阪奈道路の入口 ←城跡 |
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麓からのハイキング道はいろいろあるようですが、野崎観音から徒歩50分程度です。車の場合は阪奈道路で生駒からは山上口の信号(信貴・生駒スカイライン入口)から大東市へ1km先(但し、阪奈道路は中央分離帯があるため、次の信号でUターンが必要です)、大東からは竜間の信号の800m先の楠公寺の大きな看板があるところで左折し、楠公寺(なんこうじ)まで2kmです。 後は、四条畷神社から登るルート、国道163号線(清滝生駒道路)の楠公里の信号近く、四条畷東小学校脇を進み、御机神社、龍尾寺(伝:茶臼山砦 )の間の道を権現川沿いに登ると楠公寺に至ります。 |
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訪城備忘録 | |||
登城道は徒歩の場合は野崎観音、あるいは、四条畷神社から登れますが、駐車を考えると野崎観音から行くのがいいのかもしれません。横着して車で楠公寺まで行きました。阪奈道路から入ったんですが、結構道が狭く、オフロードだったり、大学、高校のグランドがあったり、私有地みたいな道路を通ります。(最近、道は舗装されました。) 帰りは道を変えて走ると竜間の信号の手前300m大東寄りに出て来ました。 往時は馬場であった楠公寺から山頂を目指します。10分もかかりません。山頂を中心に尾根上に北側へ倉屋敷郭、御体塚郭などが続き、通称:展望台郭、史蹟碑郭からの眺望は抜群です。各郭間は堀切で処理され、郭の東西下斜面の諸所に石垣が残存しており、見応えがあります。主郭から南側には大きな千畳敷(現在はテレビ施設有)やその先には石垣を伴う虎口が残存しています。本丸展望台郭東下遊歩道沿い⑧、本丸展望台郭下北側から東側にかけて、倉屋敷西下斜面③、御体塚郭東下斜面などに規模の大きな石垣が残存しています。お寺で地元の方とお話してましたら、徐々に伐採などをして整備しているそうです。 なお、2015年、地元では城跡名を「飯盛城」に統一したようです。^^; その後、石垣の発掘調査もされ、2017年3月には現地説明会もあったようです。 2018年03月に訪城しました。発掘調査の後で南郭の土塁、御体塚郭の東側下遊歩道の下の石垣などが見やすくなってました。南郭(丸)下に畝状竪堀①があったって初めて知りました。現地は冬でも草木が多く、肉眼でなんとなく竪堀が判る程度ですが。千畳敷下の大きな郭の西側に張り出した郭の先端下に堀切と土橋②が明瞭に見られました。御体塚郭東下遊歩道下に大規模な石垣④があり、発掘調査で見やすくなってました。さらにここから急斜面を下りた段郭や急斜面に石垣⑦が残ってます。ここまで降りても石垣があるには驚きました。さらに、主郭東下遊歩道下の支尾根段郭にも石垣⑤が残ります。ここは過去には一度整備されたのか木の階段が朽ちた状態であり、草木は伸び放題でしたが、段郭切岸面に石垣が残ってました。過去訪城した時とは比べものにならない石垣の残存度を確認できたです。 2018年04月にまた訪城しました。 城友から前回の石垣よりさらに大きな石垣が山中にあるとの情報で連れて行ってもらいました。前回は谷筋の上から見て左側石垣を見たんですが、大石垣は右手の斜面にあります。谷筋途中から行くと石切り場のような空間を越えた先に大石垣はありました。中央に開口部があって左右と開口部の下斜面に石垣があります。特に右手の石垣は飯盛城の中では一番大きな石が使われています。専門家などは後世の石垣、砂防の石垣ではと言われるようです。但し、確定的でもないようです。ここの大石はそのそばの石切り場で切り出せば可能の気はします。また、谷筋から上がって来る城道があってもいいような地形です。開口部は虎口にも見えます。これを単純に後世等の石垣とは思えないのです。当日、大東市役所の方々がN教授から国史跡指定に向けて、城跡保存等の見学・勉強会をされていました。この石垣は見られたかどうかまでは確認できませんでしたが、どう判断されるか興味があります。史蹟碑郭の北側斜面を覗き込むと石垣が見えます。草木が多く、垂直のような崖のため、上からしか見られないですが、史蹟碑郭を石垣が巻いている感じです。 2018年11月、現地説明会に参加してきました。私自身は2018年、3回目の飯盛城でした。今回の現説は大東市側は南丸東側の虎口石垣の説明、四条畷市側は御体塚郭の建物遺構の発見と御体塚郭東下遊歩道の下に城道の確認がされたとの説明でした。南丸東下虎口は城道が3m幅、南丸下石垣は根石と石垣で2段の石積み、城道の東側の小郭は南側から東側へL字に石垣が巡ってます。今まで飯盛城の建物について、後世の改変もあり千畳敷では建物跡が発見されず、その他の郭でも確認はされなかったようですが、初めて御体塚郭に建物の痕跡が出たという事です。その証拠は塼(セン)の列と礎石の発見であったようです。塼は現代のタイルのようなもので、外観に張り付けられたものとの事です。また、瓦の破片も出てます。ただ、御体塚郭は中央に岩が露出して、あまり大きな郭ではないため、伝承通り、三好長慶を一時埋葬した場所であったとしたら、それの廟所的なものであったか、いずれにしてもそう大きな建物ではなかったようです。東側遊歩道下の城道は2m幅で、石段が検出されたようです。城内を移動するための城道で、大手道というような判断はできないようですが、この発見は大手道がどこかわからないこの城では相当にインパクトのある発見であるようです。さらに、千畳敷の西側斜面を下りたところに石垣列が発見され発掘調査されてました。 2019年01月・07月 千畳敷西側斜面の石垣は1月にはもう埋め戻されてました。東斜面(御体塚郭東下遊歩道下石垣のさらに急斜面下)の大石垣及び(倉屋敷郭東下遊歩道より)東尾根下の石垣が草刈りがされていましたので見に行きました。今後、発掘調査とかされるのかもしれません。 ※:文書の〇数字は現地説明板からの縄張り図に加筆した数字で遺構のある場所です。 |
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南北朝期になんらかの城郭施設(砦)が構築されたようですが、本格的な築城は享禄年間(1528~32年)に畠山義宣の家臣の木沢長政によって築城されたとされます。木沢氏は守護の畠山義宣を抑えて勢力を拡大しましたが、天文十一年(1542年)に細川晴元、三好長慶と戦い討死し、守護の畠山高政は安見直政を守護代とし、この城を与えたようです。永禄三年(1560年)、高政、直政を破った三好長慶が入り、ここを居城としました。永禄七年(1564年)、長慶が病死し、永禄十一年(1568年)に織田信長が京都に入ると、畠山昭高の家臣の遊佐信教が守備しましたが、天正四年(1576年)に信長に攻められ落城し廃城になったとされます。 |
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山中の謎の大石垣 ⑪ 山中の斜面にある石垣。真ん中に開放部があり、左右に大石垣があります。 特に石垣を前にして正面右手の石垣が大きいです。開放部の下の斜面にも石垣が残存してます。 |
2017年撮影 |
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