和泉 岸和田城



ファイルNo1553


              模擬天守を南から              

@ きしわだじょう 
  別名 千亀利城(ちきり)・ 

A住所:岸和田市岸城町9
B目標地点:岸和田市役所
C形式:平山城  D比高:5m 
E現況:山林

F遺構等:郭・石垣・水堀・模擬天守・模擬櫓
     ・説明板・碑

G時代/人物:室町期・戦国期/信濃氏?・小出氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  10分

J撮影・訪問時期:2001年01月・2007年06月
           ・2019年07月

  

道案内 ←駐車場

阪和自動車道の岸和田和泉インタで下り、インター西の信号で右折し府道40号線に入ります。約11km先、磯上南信号の側道で左折します。約5.5km先、岸和田本町の信号(岸和田市役所前)で左折し、約150m先で右折します。約200m先左手が本丸、右手が二の丸の間を通りです。T字まで行くと左折、すぐの右側が駐車場です。
 
訪城備忘録

輪郭式の平城で、現在は本丸・二の丸を囲む内掘と石垣が残り、模擬天守、模擬櫓などが建てられています。やや微高地の先端に城があるという感じで戦国期は海岸沿いであったようです。ここの見所は石垣でしょうか。江戸期を通じて何度も修復、積み直しをされたようで、本丸の石垣を一周すると、ある所は野面積み、あるところは打ち込みハギ、切り込みハギと変化します。二の丸は上部と下部で積み方が違います。それに加え、現代の積み直しで石材を入れ替えしたりしているようで、石材の材質も違うといくことで石の色も違うため、なにか幾何学模様のようになってます。もうひとつの特徴は本丸の内堀沿いの南面から西面かけてある犬走りです。目的がはっきりわかってないようです。模擬天守は往時は五層であったようですが、現在のものは三層天守です。昭和29年にコンクリートで作られたんですが、戦後のコンクリート模擬天守の最初は富山城で昭和29年(1954年)の夏完成、ここは昭和29年の秋完成であったようです。どちらにしても2019年現在で60年経過してるわけですね。本丸の模擬天守前には八陣の庭という石庭が造営されてます。

城址碑
歴史

現在の地に岸和田城が築城されたのは応永年間(1394〜1428年)に信濃秦義と言われます。細川氏、三好氏、松浦氏などが争い、この城の城主だったようです。その中で永禄三年(1560年)、三好実休が大改修したようで、この時は現在の二の丸が主郭であったようです。天正十三年(1585年)、豊臣秀吉の紀州攻めの後に小出秀政が城主となり、城の改修を行い,慶長二年(1597年)、五層の天守が完成したとされます。江戸期に入り、城主交代が何度かありましたが、元和五年(1619年)、(松井)松平康重が入封、元和九年(1623年)に伏見城が解体された際に櫓が移築されています。寛永十七年(1640年)、岡部宣勝が入封、岡部氏が13代、明治維新まで続きました。

 
本丸石垣・内掘・模擬天守
本丸石垣西面と内掘
本丸石垣北西面・本丸隅櫓・内掘
本丸石垣東面
現地説明板より
  
二の丸伏見櫓台石垣
二の丸石垣
大手門と内掘     本丸隅櫓
右と左手積み方が違う本丸石垣(西面)と犬走り
本丸石垣(南面)と犬走り
犬走りに下りる石段
本丸石垣(南面から南東隅)と犬走り・ここの石垣は相当に現代の積み直し?
本丸石垣(東面)
本丸内模擬天守と手前は八陣の庭
模擬天守
二の丸石垣(東面)
二の丸石垣(東面<上部と下部で石垣の積み方が違う>
二の丸伏見櫓台石垣<上部と下部の積み方が違う>
二の丸堀と石垣(切り込みハギが二種類)と土橋石垣(野面積み)
岸和田古城  
岸和田市野田町1丁目
2007年当時には発掘調査中でしたが、現在は宅地となり、碑と説明板があるのみです。
建武元年(1334年)、楠木正成の家臣の和田高家(正成の甥)が築城し、この地は岸という地名で岸の和田で岸和田という地名ができたという通説でしたが、これは江戸期に興った説で違うようです。楠木正成の家臣の岸和田治氏が築城したのではないかともされますが、それも定かでは無いようです。発掘調査では15世紀半ばの築城ではないかとされるようです。

発掘調査当時

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