道案内 |
中国自動車道池田インタから国道171号線を北上します。約400m先の夫婦池の信号を直進し府道113号線に入ります。約800m先の城南3丁目の信号を左折し国道176号線に入ります。約600m先の池田駅東口の信号を右折し府道9号線に入ります。約800m先の信号が池田城山町の信号で、車なら左折し近くの100円パーキングに停めて西門から入るか、さらに約250m先の五月山公園前の信号を右折し、約300m先右手の五月台体育館の駐車場に停めて案内板に従い徒歩で約250m歩くか、さらに、城跡公園の東側入口前に100円パーキングがありますのでそちらに停めて入るかです。いずれにしても城跡公園周辺は道が狭いので注意ください。
|
訪城備忘録 |
2000年10月に一度訪城し、2023年年末に再訪しましたが、年末休暇という事で城跡公園には入れませんでした。^^; 仕方がないので城跡公園の周囲を一周して帰りましたが、周囲の地形がわかって、これはこれで面白いです。 城跡公園は2000年4月に開園し、東側が公園の正門のようで(この門は往時には虎口はなかったようです。)、立派な門と手前の空堀跡に橋が架かっています。入口はそれ以外に府道9号線側入る西門と南側から空堀を越えてから入る南門がありますが、往時はこの南門が唯一の虎口であったようです。南門そばには模擬櫓が建っています。遺構としては東側から一部南側までの空堀でしょうかね。
|
東門入口
|
|
文献では鎌倉期より池田氏の名があるようです。建武元年(1334年)、池田教依が築城したとされるようです。その後長く池田氏の居城となりました。池田充正の代では荘園の代官や高利貸や蓄財したとされますが、応仁の乱に際、文明元年(1469年)に東軍についていた充正は西軍の大内氏に攻められ落城しました。しkし、大内軍は撤退すると充正は城を奪還します。永正五年(1508年)、足利義稙と足利義澄の将軍職に争いの中、充正の子の貞正は足利義澄派の細川澄元方として戦い、足利義稙派の細川高国方に攻められ城は落城し貞正は自刀、城は落城しました。貞正の子の信正は細川澄元、晴元に従い、その後、三好長慶に従いました。池田城主は子の長正、一族の勝正と繋がります。永禄十一年(1568年)、織田信長に抗した為攻められ落城するも許されて信長の家臣となりました。信長より摂津三守護(伊丹親興、和田惟政)に任じられるも、台頭してきた荒木村重、一族の池田知正に追放されました。その後、村重は信長に臣従し、知正は村重の家臣であったようです。天正六年(1578年)、村重は信長から離反し、村重の居城である有岡城は信長軍に包囲され、池田城は信長の本陣になったりしています。有岡城は天正七年(1579年)に落城し、池田城は信長の命により天正八年(1580年)に廃城となりました。
|