大和 | 多武峰・御破裂山城 |
ファイルNo3954 |
@ とうのみね・ごはれつやまじょう |
道案内 | |||
西名阪道の天理インタを下り、国道169号線を南下します。約21km先の阿部の信号で左折し国道165号線に入ります。約1.6km先の薬師町の信号で右折し県道37号線に入ります。約7km先の八井内の信号を右折し県道155号線に入ります。約1.5km先に談山神社の第三駐車場があります。神社は右手下りて行った先です。 徒歩で行かれる場合は談山神社(有料)に入り、十三重塔の西側、権殿の裏手に談山、御破裂山への登り口があります。談山(かたらいやま)を経由して御破裂山まで510m(20分)と表記がありました。 車の場合は第三駐車場からさらに県道155号線を明日香村(石舞台方面)に進みます。約400m先に右手に登る道がありますので、ここを登ります「@」。すぐに左右に道があります。右は西門跡です。左に進みます「A」。約250m先の右手民家の脇の路地に右折します「C」。ここが林道入口です。約1.2km先が徒歩の道との合流点で、ここに車を停車させ、200m先が鎌足の墓です。 なお、入口から約800m(林道終点駐車位置から約400m手前)に林道がやや広くなっているところ「E」があります。停車位置にはここから下って再び登った先になりますが、この広いところの左に藪がぽっかり開いています「D」。ここ下って尾根を西へ約600m進むと増賀上人の墓のところに至ります。 |
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訪城備忘録 | |||
前回は談山神社から徒歩で談山経由で御破裂山(藤原鎌足墓)までは行ったんですが、資料をもってなかったんでここでUターンしていましたしたが、秋にリベンジしました。今回は車道(林道)で行ってみました。 正面に鎌足墓の頂を見ながら左手へ廻ります。左手下に二つ郭の跡があります。 もうけもの道のような細道をさらに進み、頂の反対側に行くと綺麗な堀切があります。さらにその先にも土橋を伴う明瞭な堀切があり、二重堀切になってました。堀切の先の平坦地をやや左手の尾根を進むと尾根先端の小郭があり、その先にものずごい深い堀切があります。高低差は5mほどでしょうか?なかなかの堀切でした。横幅、深さも大きくて写真に全体の姿が撮れないので、部分写真になってしまいました。最初、ここが築かれたのは平安期とも言われますが、遺構は戦国の城ですね。 |
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中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)はこの地、談山で大化の改新の談合をしたと伝わります。白鳳七年(678年)、鎌足の長子の定慧和尚が鎌足の遺骨をこの地に改装し十三重塔と講堂を建立し妙楽寺と名付けたのが始まりで、大宝元年(701年)、神殿を立て、鎌足の御神像を安置したのが談山神社の始まりとされます。寺は多武峰寺とも言われます。元々は興福寺の末寺でしたが、延暦寺の末寺になり、興福寺とは争う勢力となったようです。 以後、平安期から戦国期まで何度も抗争に巻き込まれ焼失を繰り返しました。 室町前期では、興福寺と対立した越智氏、箸尾氏がこの地に籠り焼失し、戦国期に入り、永正三年(1506年)、赤沢氏に攻められ焼失しました。さらに、永禄二年(1559年)より、松永久秀との10年に及ぶ抗争があったとされ、今見る遺構はこの頃に築かれたとされるようです。江戸期を越え、明治二年(1869年)、神仏分離令により妙楽寺は廃され、談山神社となりました。 |
談山 |
御破裂山城への車道(林道) |
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