大和 高束城



ファイルNo3925


                            

@ たかつかじょう 
  別名  

A住所:桜井市吉隠〜萱森
B目標地点:萱森集落
C形式:山城  D比高:110m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀切・堀・土塁・説明板
G時代/人物:平安期・戦国期/藤原氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  萱森上野集落から東海自然歩道で約1km
  20分

J撮影・訪問時期:2023年03月

  

道案内     ←東海自然歩道の入口

名阪国道(国道25号線)の針インタで下り、国道369号線を南下します。約10km先、王立橋東詰の信号で右折します。約1.5km先右手の桜井署宇陀庁舎手前を右折します。(約2.5km先の西峠の信号は国道165号線の信号です。) 鳥見山公園を目指します。約1.6km先、鳥見山公園下を通過しさらに林道を進みます。約1km先が萱森の上の集落に至ります。U字に下る道の途中に東海自然歩道の長谷寺方面への入口があり、ここに入り、尾根道を約1kmほど行った左手が城跡です。 (城跡の説明板のところへは萱森下の集落から東海自然歩道の登り道を約600mくらいのようです。) 

訪城備忘録

萱森の上の集落の空き家スペースに車を停めさせていただき、東海自然歩道を長谷寺に向かって進みます。最初の内は道も草木が多かったんですが、途中から草木も無くなり、歩きやすい尾根道になります。途中、高束城700mという標識も立っています。尾根道を進んでいくと道を分断する二つの堀切状に至ります。その間はやや盛り上がっていて、ここに番所でもあったんでしょうかね。資料では高束城は4ケ所の遺構に分かれると書かれていましたが、尾根上に遺構は有となってましたので、ここがその箇所だと思います。さらに、尾根道左手上には平坦地を伴いそうな頂きがあり、ここも遺構なのかもしれませんが、寄りませんでした。^^; 

城跡手前、最後の坂を登ると「東海自然歩道」の標識が立っていて、左斜面の上が本城、標識の奥(右手側)が出城になります。 もう少し尾根道を歩いて行くともう薄くて読みづらい城跡案内板のところに至ります。 左手を登って行くと主郭の馬乗石の所に出ます。右手はそのまま道が続きますが、すぐに堀切の痕跡が認められます。右手の道は萱森の下の集落に下りるようです。

主城は頂部の主郭を中心に東北斜面と東側斜面に段郭がいくつかありますが、藪状態です。主郭も藪状態ですが、木に「高束山」という標識がくくってありましした。北西側の馬乗石は巨石でした。馬に乗るための足かけ石ちゅう事の伝承です。主郭北側下斜面にはL字の土塁と堀?竪堀?のような窪みが東に続きます。主郭南側には切岸で約1m下がって二の郭があります。主郭も二の郭も広さがあります。主郭と二の郭の境の西側に低い土塁があると言われますが肉眼ではわかりません。 二の郭先端まで行くと深くて明瞭な堀切が残ります。これを越えると三の郭で、この三の郭先にも堀切の痕跡があります。

主城を離れ、先ほどの自然歩道の標識の所から北側に入ります。すぐの所が堀切の痕跡に見えます。北側の頂まで登ります。平坦地はありますが、狭いです。この先に堀切の痕跡のような窪みがありました。

全体的には技巧的とは思わないですが、居住性はあるかなと思えた城跡でした。

東海自然歩道の城跡説明板
歴史

史料には昌泰元年(898年)、長谷寺関連の藤原家賢が居所として築かれたのが始まりとされるようです。 戦国期に入り、永禄七年(1564年)、松永久秀の攻撃を受け落城、城主の藤原順賢は討死、城は廃城になったとされるようです。 <現地案内板より>

馬乗石     先端の堀切痕跡
萱森の上の集落の入口    自然歩道沿いの景色
東海自然歩道
東海自然歩道(左手上が本城、右手標識の奥が出城)
地理院地図(水色/城跡・黄色/徒歩道・青色/車道)
  
東海自然歩道沿いの堀切状@
東海自然歩道沿いの堀切状@
東海自然歩道沿いの堀切状A
東海自然歩道沿いの堀切状A
東海自然歩道沿い説明板横の堀切痕跡
主郭
主郭
二の郭(主郭から見る)
二の郭下堀切
二の郭下堀切
三の郭
三の郭
三の郭先の堀切痕跡
主郭北側下L字土塁と堅堀?
自然歩道から出城方向(堀切痕跡?)
出城主郭
出城主郭先の堀切痕跡

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