大和 | 龍口城+城山城 |
ファイルNo3180 |
伊賀忍者百地氏関連の城
@ りゅうくちじょう+しろやまじょう |
道案内 ←登城口 ←城跡 | |||
名阪国道(国道25号線)の針インタで下り、国道369号線を南下します。約10km先、福地の信号で左折し国道165号線に入ります。約13kmで奈良ー三重県境です。県境から1.2km先で右折し橋を渡り宇陀川を越えます。約3km先で左折します。 約1km先右手高台が「百地三太夫屋敷」です。 屋敷へ行く道へ右折し、50m先を右手に入ると「百地三太夫屋敷」で、曲らないでまっすぐ約200mほど坂道を登ったところで左への道に左折、(まっすぐ行くと民家への行き止まりです) 、100m先を右へ逆V字に右折します。コンクリート道が尾根の鞍部まで約400mです。 鞍部は大きな切り通し状で、右手上に墓地があります。墓地の上の段の左端から右手坂を登って行きます。道らしい道ではないです。300mほど登った山頂部東端が龍口城で、龍口城からさらに200mほど進んだ頂上部が城山城です。 道案内は三重県側から説明しました。奈良県側の竜口からも登れるのでしょうけど、明確に道が判りませんでした。いずれにしても三重県側は墓地までのコンクリート道になっていますが、奈良県側は小道があるだけと思われますので、三重県側から登るがいいと思います。 |
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訪城備忘録 | |||
まずは奈良県宇陀市室生竜口へ行ったんですが登り口がわからず断念。山裾を3.2km廻って三重県名張市竜口に廻って登りました。 墓地は昼間でもうす暗くやや不気味でした。「お邪魔します」と手を合わせて墓地の裏手の坂を登ります。道らしいというわけではないです。 山頂部稜線近くに登ると薄い堀切状があり、うっすら土橋のような形状が残ります。城域東端に入ると南側真ん中から北側一部までに浅い堀が巡ります。(今は小道状になってます。) 掘部分から一段上がると副郭が南から東側に巡ります。この副郭の東側は土塁があるように見えますが草木で埋もれてます。 主郭に上がると古めかしい白菊稲荷の祠と小屋のような建物があります。主郭西側一部から北側一部にL状の低い土塁が残ります。主郭西側下にも空堀状の地形が残ります。往時は主郭には土塁が周囲を巡り、主要部周囲は空堀が巡ったようです。なお、主郭南西斜面下には大きな水溜りがあり、井戸跡?とも思ったんですが、違うでしょうね^^; さらに山頂部を頂部に向かって歩くと細長いですが幅のある平坦地を越え、やや登るとここも四方を低い土塁が巡る小さな郭に至ります。ここが城山城です。南側中央に虎口の痕跡があります。 主郭東西は今はほとんど窪みが判る程度ですが堀切になっていたようです。 なお、奈良県側竜口の集落背後の中腹にも小規模な城跡遺構があるようで、これを西峰城と呼ぶようですが今回は未訪城です。 さらに三重県側登城口麓には「百地三太夫屋敷」があります。今でもご子孫がお住まいになっておられ江戸期の建物、門があります。龍口城、城山城ともに小規模な上、相当に崩壊、埋もれてますので、なんとか城の痕跡が判ると言う感じです。 |
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元々竜口は東大寺の荘園領であったようですが、平安後期に東大寺と興福寺が領地紛争が起き、竜口は東西に分割されたようです。大和側は興福寺領になったとのことです。百地氏は興福寺との関係があるようですが、室町中期から戦国期、百地氏は当地に勢力を持ったようです。百地氏は大江氏の末裔ともされるようですが定かでは無いようです。また、伊賀市(旧:上野市)にある百地丹波城は伊賀忍者の上人、百地丹波守の城とされますが、竜口にある百地三太夫屋敷はここの本家筋と言われます。しかし、戦国期の百地丹波守秦光と三太夫が別人か同一人物かは定かではないようです。 |
城山城 |
百地三太夫屋敷 3181 三重県名張市 |
近くの城・関連の城:百地丹波城(伊賀市)