道案内  |
西名阪道の香芝インタから香芝インタ上中の信号を右折し国道168号線に入ります。約2.2km先の北今市3丁目西の信号で右折し県道105号線(中央幹線)に入ります。約3.5km先の穴虫西の信号で左折し国道165号線に入ります。約1.7km先の配水場を越えてすぐの右側に二上山の登り口と畑城の説明板があります。
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訪城備忘録 |
この個別ページを作成が訪城してからずいぶん経ってから作成してますので、どこから登ったか記憶が抜けています。国道から二上山へ向かい、右手が城跡で、アタラシ池のところで左手が二上山方向で、右手へ行って、すぐを登ったような気がします。
城は中央の山頂部を主郭として東側に小郭が並び、西側に大きな郭が二つあります。途中、二か所に堀切があります。また、主郭の東下には井戸も残るとありますが、見落としてます。西端のピークの郭の北側も堀切の先が細尾根になり、その先に郭があるようですがこちらも行けてないです。この城は中央の主郭と西端のピーク郭を二つの堀切で遮断した一城別郭の城なのかもしれませんね。
草が多い薮の状態のところが多いですが、堀切のひとつは明瞭に見られました。
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説明板
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築城時期は定かではありませんが、岡氏の詰め城であるようです。鎌倉期より岡氏は、万歳氏、布施氏、高田氏などとともに平田荘の八荘官と言われるようです。南北朝期は北朝方であったようです。永禄三年(1560年)以降、信貴山城、多聞城を築き大和支配を進めた松永久秀に属したようです。天正元年(1573年)、久秀が織田信長から離反し敗れた後は筒井氏に属したようです。天正五年(1577年)、、久秀が信貴山城で滅亡し、天正八年(1580年)、信長の大和一国一城令に対して、岡彌二郎はなんらかの理由で信長と対立したため自害し武家岡氏は滅亡したようです。
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