道案内 ←登り口 ←城跡 |
大和高田バイパスから南阪奈道路の葛城インタから太田南で県道30号線を南に入ります。すぐの中戸の信号で斜め右折し県道254号線に入ります。1.2km先、寺口の信号で右折します。500m先で、まっすぐ進むと城跡方面、右折し、坂を登ると左に鋭角に登ったところに二塚古墳があります。 城跡と二塚古墳の分岐のところに案内標識があります。(古墳からさらに登って行った行き止まりに右に調整池があり、ここで、左の細道を進むと橋の下に至ります。ここで川を反対に渡り、上に上がると登城道と合流します。この橋を渡ったところに標識があり、城跡まで900m、直進行き止まり、右折布施城とあります。道なりに登ると城跡案内板に至ります。ここから主郭まで登城道で500mですが、説明板の右手の斜面を登ると尾根先端郭が始まります。 東の尾根郭群には登城道の城跡まで300mと200mの間の左手側になります。200m地点近くから細尾根を進みますと東郭群です
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訪城備忘録 |
大きな城跡です。城域はY字を逆さにしたような感じで、北東から南西へ尾根中腹に一直線の連郭郭群があり、これの中間地点付近から南東への支尾根に東郭群が展開されています。 説明板の右横から入り斜面を登ると尾根先端郭に到達しますが、この入口が虎口で、石積みがあるように見えますが、自然石でしょうか?? 城は典型的な連郭で、そう技巧的とは言えませんが、とにかく切岸が非常に高く、登り下りするのに難儀する切岸が何箇所もあります。この高い切岸は見所のひとつです。中間くらいに櫓台があり、その背後には大きな堀切があります。この堀切で前方の郭群と後方の主郭を含む郭群を隔てています。 主郭は指令台程度の広さで、その背後には深い堀切、さらに西側にはここのもうひとつの見所の畝状竪堀群が南北の斜面に落ちています。 東尾根郭群も切岸が高く、それだけでも圧倒される感じですが、先端にある畝状竪堀は不明瞭でした。 とにかく、大きな城跡で、戦国の城を満喫できます。
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城域入口の案内板
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築城時期は定かではありませんが布施氏が築城したと伝わります。布施氏は大和国人の内、国判衆十二氏とされました。 筒井氏と松永氏の対立が深まると布施氏は筒井氏方にあり、筒井順慶が松永久秀に破れた際、一時期この城に身を寄せたと伝わります。松永久秀は何度かこの城を攻めるも落城はしなかったようです。しかし、織田信長の天正八年(1580年)の廃城令で役目を終えます。布施氏は天正十三年(1585年)の筒井定次の伊賀国替えに同行し、慶長十三年(1608年)、筒井氏が改易された後は没落したようです。
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