道案内 ←登り口 |
西名阪道の法隆寺インタを下り、県道5号線に右折します。2.8km先、法隆寺東の信号で左折し国道25号線に入ります。2.8km先の竜田大橋の信号で右折し、国道168号線に入ります。 1.5km先の椿井の信号で国道は右折です。さらに1.2km先が道の駅「大和路へぐり」ですが、椿井の信号から約700m、道の駅の手前からも700mのところを、椿井の信号からすると右折します。250mほど進み、左折し、100m先を右折します。集落の細い坂道を300mほど登ると常楽寺前です。椿井の井戸横の細道に入り、20mほどで道は左折し、100mほどで椿井春日神社です。登り口は神社境内からと再度の左折の箇所にあります。 国道から箇所箇所に道案内板が立ってます。国道から集落内・神社までは道は細いですが、乗用車なら通行可能です。
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訪城備忘録 |
昔は整備されておらず、登城道もわかりづらい行きにくい城跡でしたが、2010年に整備されました。しかし、整備したおかげで訪城する方が増えて遺構が破壊の危機にあるとの事で、2013年3月より当面北郭群は閉鎖との事です。南郭群の堀切、土橋にも保護の土嚢、人工芝がひかれていたりしています。 さて、この城は、南郭群と北郭群の一城別郭の城で、北城が主郭のようです。 尾根上の要所に堀切を配し、一部土塁を伴う郭がいくつかあります。 西斜面上には段郭が多く存在するようですし、東側下には横掘もあって、その下斜面には数条の竪堀もあるようですが、整備されていませんし、現在は立入禁止です。 南郭は主郭と副郭のわりと大きな郭を堀切で隔てます。一部石積みの跡も確認できます。全体的には戦国の連郭式の城という感じで、奈良は平城が多い中、しっかりとした山城という印象です。
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案内板
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築城時期や築城者は定かでは無いようですが、室町期に椿井氏が築城したと考えられるようです。その後、松永氏の支城となり、天正五年(1577年)に松永氏(久秀、久通が信貴山城で自害)が滅んだ後は筒井氏の支城となって、筒井氏の重臣の嶋左近が入ったとされますが確かではないようです。嶋氏は近くの西宮城を居城としていたので、詰め城として椿井城を持ったは充分にありえることですが。あるいは、同じ筒井氏の家臣の八條氏が在城したとも伝わるようです。廃城は、織田信長が大和に発した破城令が出た天正八年(1580年)ではないかとの事です。
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