大和 | 楢原城(前城・中城) | ![]() |
ファイルNo2283 |
畝状竪堀と三重堀切が明瞭に残る
@ ならばらじょう |
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道案内 ![]() ![]() ![]() |
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西名阪道の香芝インタから香芝インタ上中の信号を右折し国道168号線に入ります。約2.2km先の北今市3丁目西の信号で右折し県道105号線(中央幹線)に入ります。約3.5km先の穴虫西の信号で左折し国道165号線に入ります。約5.5km先の當麻寺の信号で直進します。ここより県道30号線になります。約2.5km先で南阪奈道の葛城インタ下を通ります。さらに約1.4km先右手の屋敷山公園が新庄城です。ここからさらに約3.5km先の櫛羅の信号です。さらに約1.2km先(楢原の信号の約100m先、九品寺の手前)、右手の電柱に墓地の看板がある路地に右折します。約350m先に駒形大重神社の鳥居です。車ではこの辺に停めて、左手の方へ歩いて行きます。左手が墓地、さらに進むと右手が貯水池です。さらに山へ進みます。鳥居から約600mほどで林道は左手、右手にパックリと開いた細道があります。この細道を山側へ進みます。細道は水が絶えず流れていて道なのか谷なのか判別しにくい感じです。約5分も登ると谷が開けます。この右手斜面を登ると寺跡と言われる前城の前部に至ります。谷を進むと一番奥の斜め右手上が前城の三重堀切です。前城の奥と南に分かれた尾根が中城、左の奥の山上が奥城になります。【林道分かれ道箇所案内】 |
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訪城備忘録 | |||
9月の下旬の訪城でしたが、開けた谷は夏草が生い茂り、尾根上の郭も藪、蜘蛛の巣、倒木で歩きにくく進むのに難儀します。この城は、沙恩寺跡と言う伝承のある平坦部を前部分に持つ前城と谷を隔てた尾根にある中城と前城の三重堀切のさらに奥の山上にある奥城で構成された城です.。規模的には大和有数の大きな山城であり、畝状竪堀、堀切などが明瞭に残る城跡です。 登城道を登って来て、谷が開けたところで右上に登ります。ここは古代寺院の沙恩寺(左音寺)と推定される部分との事です。何段かの削平地が連なり、少しづつ登ります。しかし、郭内は木が密集し、夏草は生い茂り、蜘蛛の巣は多く、倒木を多いという状態で歩くだけで疲れます。数段上ると浅い堀切があって最初のピークの郭をあります。ここにはL字の土塁も確認できますが、広さは無く、見張り台のような感じです。このピークの背後にも堀切があり、そこからまた登ります。 北側斜面は歩いてきた郭が藪状態であったのに、この斜面は草木も少ない状態で、この城の見所のひとつの畝状竪堀がよく見えます。この上、尾根上が中城の主要部になりますが、郭内はやはり藪状態です。 中城の主郭も小さな郭で櫓台ちゅう感じです。この主郭の背後に明瞭な三重堀切が見られます。さらに、主郭の南側斜面にも長さは無いですが、畝状竪堀が見られます。郭内は藪で進むのに時間が掛かり大変しんどいですが、畝状竪堀・三重堀切は迫力があり、見に来た甲斐があると言うものです。 しかし、体力的にはきつかったため、奥城は断念して退散しました。帰りも目印らしいものはなく、なにげなく歩いていると北東側に下りて行ったりして、途中で南側に廻り込んだなど、気を抜くと迷いそうなところですので、訪城される時には目印・方位に注意ください。 楢原下城(平城) |
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楢原氏は鎌倉期には国人として台頭してきたようです。南北朝期には南朝方として活動し、越智氏に近かったようです。平時は楢原平城に居住し、楢原城は詰め城であったようですが、築城時期は定かではないようです。応仁の乱(応仁元年(1467年)〜文明九年(1477年))には筒井氏に属し、文明七年(1475年)に越智氏方の吐田氏に攻められ落城、一時没落したようですが、明応六年(1497年)に吐田氏を破り楢腹城を奪還したとされます。その後も筒井氏(順昭・順慶)方として働きますが、筒井定次が天正十三年(1585年)に伊賀上野に転封になった際には従わずに帰農したと伝わります。 |
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楢原下城 f4118 |
@ ならばらしたじょう A住所:御所市楢原 B目標地点:楢原集落 ![]() C形式:丘城 D比高:10m E現況:畑地・雑木林 F遺構等:なし? G時代/人物:室町期/楢原氏 H満足度: 凸 I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:5分 J撮影・訪問時期:2025年02月 西名阪道の香芝インタから香芝インタ上中の信号を右折し国道168号線に入ります。約2.2km先の北今市3丁目西の信号で右折し県道105号線(中央幹線)に入ります。約3.5km先の穴虫西の信号で左折し国道165号線に入ります。約5.5km先の當麻寺の信号で直進します。ここより県道30号線になります。約2.5km先で南阪奈道の葛城インタ下を通ります。さらに約1.4km先右手の屋敷山公園が新庄城です。ここからさらに約3.5km先の櫛羅の信号、さらに約1km先が楢原の信号でここを左折します。 約400m先の右手の台地上が城跡のようです。道からは谷の先になるため、約100m先を右折し、民家を右手見ながら約200mほど行った先がクランク状になっていてこれの奥に集落の裏側に入れる細道があります。 Gマップ先生が城跡はこことポイントが打ってあるので寄りました。集落裏手は広い台地になっていて今は果樹園になってます。この背後には土塁状の箇所や冬場は干上がってますが、三日月の池があります。一番高いところが主郭?らしいです。北側は道との間が谷になってます。見ようによっては空堀ですが・・・。 いずれにしても城という感覚は無かったです。 歴史は楢原城を参照ください。 |
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