大和 筒井城



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@ つついじょう 
  別名 

A住所:大和郡山市筒井町
B目標地点:
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:宅地・田畑・神社

F遺構等:堀・碑・説明板
G時代/人物:室町期/筒井氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  筒井西の信号から8分

J撮影・訪問時期:2009年06月・2019年07月

  

道案内 ←説明板のある場所    ←城址碑のある場所

西名阪道郡山インタを下り、国道24号線を奈良市方面に進みます。約800m先の横田町の信号で左折し国道25号線に入ります。約2.4km先(筒井町の信号から400m先)の筒井西の信号で右折します。約350m先、正念寺の先、道としてはT字交差点ですが、実は右に人一人が通れる路地があり十字路です。この路地を入りクランク状に進むと城址碑の至ります。
 
訪城備忘録

城址碑の背後は畑で本丸跡と言われます。通ってきたクランクの路地も虎口と言われます。畑は蓮池のような沼部分もあり、堀跡のようです。畑の反対側の道に説明板と「筒井城跡」という標識があります。集落内には内堀、外堀の跡が部分的に残っています。また、集落内の道は直線的ではなく屈折して、城郭内を思わせたりはしますが、全体的には遺構の残存度は少ないです。

城址碑
歴史

築城時期は定かでは無いようですが、永享元年(1429年)、筒井順覚が築城したとされますが、発掘調査では14世紀にはなんらかの施設はあったともされます。その後、順弘ー順永ー順尊ー順賢ー順興ー順昭ー順慶と続きます。順永の時代に勢力を拡大しますが、順永が死去後は苦悩の時代が続きます。それでも、順昭の代で大和の勢力を掌握しますが、天文十四年(1545年)に死去し、順慶の代になりますが、順慶はまだ幼く、松永久秀の攻撃を受け、永禄八年(1565年)、永禄十一年(1568年)に落城し、筒井氏は椿井城に逃れます。筒井城は松永氏方の城として存続しますが、元亀二年(1571年)、筒井順慶は松永方と戦って勝利し、織田信長に従い、筒井城も回復しました。天正五年(1577年)、松永久秀は織田信長に離反し、信貴山城で織田軍と戦い自害、順慶は織田信長より大和一国を認められ、天正八年(1580年)、郡山城を築城し移り、織田信長の大和一国破城命令で筒井城は廃城になりました。

主郭部分      堀跡
現地案内板より
  
主郭部分と堀跡
反対側から
内堀の痕跡

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