道案内 ←城跡 ←登り口@ ←登り口A ←登り口B |
西名阪道の法隆寺インタを下り、県道5号線を北上します。約3km先、法隆寺東の信号で左折し国道25号線に入ります。約3km先、三室の信号で右折し県道236号線に入ります。 約4km先、右折が信貴フラワーロードで、直進が信貴山、朝護孫子寺方面になります。ここから約2kmほどで朝護孫子寺駐車場です。
登り口@ 朝護孫子寺の行者堂横から続く山道を進めば山頂の空鉢堂に至ります。
登り口A 信貴フラワーロードに入り、1.8kmほど進むと十字路があります。右折は信貴畑の標識があります。ここを左折します。細い道を約1km進むと大谷池です。 大谷池に4台ほどの駐車スペースはありますが、ほとんど釣り人の車で埋まってます。ここから左手の小道を朝護孫子寺方面に進みます。道なりに500mほど進むと右手に石段があり、中腹のお堂までも道があります。ここを登り、お堂手前で右手に登り、右手に廃屋が見えたらその左手を進み、過ぎたあたりから左手斜面を登りますと東の尾根の先端郭です。
登り口B 大谷池のすぐ手前に右に入る道があります。(今はフェンスがされてる) ここを道なりに進むとコンクルート道が城域・山頂まで続いています。
登り口C 信貴生駒スカイライン、あるいは、西信貴ケーブル高安山駅から ハイキング道を進むことになります。約30分ほど歩くようですが、私はここからは入ってないため詳細不明。
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訪城備忘録 |
2009年訪城は朝護孫子寺(登り口@)から入り、大谷池側に下りました(登り口B)、2015年は大谷池と朝護孫子寺の間(登り口A)から入り、松永屋敷の先端まで行き、谷の先端から久安寺集落側にでました。 信貴山城は大変大きな城域をもった城です。 山頂の雄嶽を主郭とし、北側斜面を中心にまるで手を広げたように各支尾根に大きな段郭群が存在します。また、朝護孫子寺から登ると山頂近くで左手に進むと雌嶽の峰があり、ここも城郭遺構があります。 便宜上、手の指のようにある支尾根の段郭群を、東側から東尾根の段郭群、松永屋敷、西の各郡、高安山側の郭群と大きく大別します。 東尾根の郭群にはこの城郭で一番明瞭ではないかと思う堀切があります。 また、郭についても土壇があったり、鋭い切岸があったり、もすや石積みかと思う痕跡があったりでなかなか見所があります。 西の郭群については、最初の2つの段郭から二股にわかれ、尾根筋の中間は手前に段差のある堀切があり、中間郭最大の長さのある郭、その先先端には二段の郭があり、この中間部に石垣が残っているようですが、見に行けてません。二股の左方向は、尾根の西側下になり、ここも2段の大きな郭があります。 高安山方向には道の左手、山頂への斜面に郭が並び、斜面側に(虎口)郭、谷側に土塁という虎口としては番所のような地形も見受けられます。松永屋敷はまずは立入屋敷とのものすご高低差の切岸その下に堀底道状の堀切が印象的です。ここから数段の広い郭が続きます。
最近、信貴山城はボランティアの方々の手で定期的な整備活動がされています。そのなかで新たな石垣も発見されたという新聞記事もあります。 これだけ大きな城で天守も存在したという城でありますが、石垣はほとんど残存していないのも少し不思議です。滋賀の佐和山城も確かに同様に広い郭は残りますが、石垣は彦根城築城で使用されほとんど残ってませんが、信貴山城の場合はどうなんでしょうか?
まだまだ、見落とした遺構がたくさんありそうですし、今後の整備、発掘調査に期待したい気持ちです。
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城址碑
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築城時期、築城者は定かではないようで、楠木正成の築城伝説もあるようです。が、確かな史料では、天文五年(1536年)に木沢長政が築城したとされます。天文十一年(1542年)に長政が討死し、一時城は廃城であったようですが、永禄二年(1559年)に松永久秀が大改修されたようです。翌年、主郭に四階の大櫓が建てられたようで、天守とも言われます。永禄五年(1562年)、久秀は多聞山城を築いて居城を移しました。 永禄十一年(1568年)、信貴山城は筒井順慶・三好三人衆の連合軍に攻められ落城しますが、同年、久秀は織田信長に臣従を許され、織田軍の援軍とともに信貴山城を攻めて、奪還しました。天正五年(1577年)、久秀は信長に謀反を起こしたため、織田軍に攻められ信貴山城は落城し、松永氏も滅亡しました。 この際、久秀がお茶の名器・平蜘蛛釜に火薬を詰めて火をつけて爆死したとされます。
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