大和 | 龍王山北城 |
ファイルNo2105 |
大和の巨城
@ りゅうおうざんきたじょう |
道案内 | |||
西名阪道(国道25号線)の天理インタで下り、国道169号線を南下します。5km先の勾田町の信号で左折し一般国道の国道25号線に入ります。7km先の天理ダムで直進して県道247号線に入ります。2.8km先で右折します。右折すると工事現場か採掘場かと一瞬思いますが、かまわず直進するとまた山道があります。2.2km先の左手に駐車場があり、少し登ると説明板と城址碑があり、ここから北城に入ります。 2022年に再訪しました。北城、南城をすべて歩いたら4時間半を要しました^^; 下記に添付しています現地案内板からの縄張図に番号を加筆していますが、これは某本の縄張図の番号に準じました。 |
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訪城備忘録 | |||
大和有数の山城です。南虎口の手前の休憩所で車を停めて石碑の所から入ります。最初に虎口の説明板がありますが、これには互い違い虎口(食い違い虎口)と書かれてますが土塁はほぼ潰れている感じです。右手の窪みは丸堀というらしく確かに丸い。これに沿うように道は登ります。 登りだしてすぐ左手に太鼓の丸郭(7郭)と6郭の間の堀切です。丸堀に沿って進むと正面は辰巳の櫓(8郭)で8郭手前で左手に登り本丸(主郭)(5郭)を目指します。途中、左手に6郭、右手にわずかに石積みがあり、そこを入ると8郭と・本丸(5郭)との間の堀切です。 5郭(本丸)は非常に広いです。西側端に低い土塁があります。その下、9郭を経由して3郭前まで降ります。3郭は西側がしっかりとした土塁があり、虎口も明瞭です。土塁の内側には石垣も残ります。その下2郭からさらにその下の帯郭的な郭に降りるんですがこの切岸、8mくらいある高いものです。急斜面ですので、気を付けてください。帯郭状を左手に進み、さらに右手の舌状尾根に進みます。ここは17郭群です。これの右手下に広い16郭が見えます。17郭の下に堀切、竪堀になります。この地点から右手に進むと16郭側に回る感じになります。この谷筋は北の大手道のようです。16郭の北端には土塁があり、16郭から17郭群をみると切岸が美しい。 16郭の南端から東に向かうと14郭(五人衆郭)です。ここも3郭同様に虎口が明瞭で土塁外側に石積みが残るます。14郭から13郭への間は南側の細道を進みます。13郭から一段上がった郭に至ります。13郭も相当に広く、北端にはL字に低い土塁が巡ります。13郭下切岸も高いです。ここから左手へ14郭下を進みます。横堀状です。これを抜けたところにくの字の堀切竪堀群があり、さらに14郭西側斜面に大竪堀が落ちています。 戻り、13郭の南端から東に進むと大堀切に至ります。ここを抜けて南の上の郭に「掘割」という説明板があります。ここから8郭の東下を進んで最初の休憩所のそばに出ました。 城址碑の所の上に馬池があり、ここで右手へ進むと左手斜面に畝状竪堀があります。藪になっていて残念ながら明瞭とは言えません。馬池の背後(南側)上には尾根の堀切と土橋があり、されに進むと小さい堀切もありました。 この城は堀切・郭など、ひとつひとつが大きく、迫力があります。石垣の痕跡もあり、北城は南城より新しいと言えるようです。本丸までと畝状竪堀の上くらいしか整備がされていませんので、本丸より北側の巨大な城域の見学には注意しながら進む必要がありますが、間違いなく、迫力のある城跡です。 |
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南北朝期に小さな砦が構築されていたようです。戦国期に入り、十市遠忠が永正三年(1506年)の大和国人一揆以降に本格築城を開始したとされます。天文年間(1532〜55年)に完成したようです。十市氏は遠忠の時が全盛期でしたが、天文十一年(1545年)に遠忠が死去し、急速に衰えました。遠忠の嫡男の遠勝の代になり、永禄十一年(1568年)に松永氏方の秋山氏に攻められ落城、遠勝は十市城に退きました。その後は、松永派の十市氏一族が守備、天正五年(1577年)、松永久秀が信貴山城で滅亡した後、翌年にこの城も織田信長の命で廃城になったとされます。 |
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