阿波 海部城



ファイルNo3879


              主郭              

@ かいふじょう 
  別名 鞆城 

A住所:海部郡海陽町奥浦字堤下〜鞆浦字山下
    旧:海部郡海部町

B目標地点:旧海部中、海部小
C形式:平山城  D比高:50m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・石垣・堀切?・碑・説明板
G時代/人物:戦国期/海部氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  説明板から15分

J撮影・訪問時期:2022年11月

  

道案内 

徳島市方面からは徳島自動車道を経由し、国道55号線をひたすら南下していくことになります。徳島インタから約90kmで日和佐駅(道の駅日和佐)です。さらに、日和佐駅から約33km先右手が阿波海南駅です。この駅はJR牟岐線と阿佐海岸鉄道阿佐東線の駅になります。阿佐海岸鉄道は2021年12月からデュアル・モード・ビーグル(DMV)が走っています。電車モードとバスモードで走れる車体です。この阿波海南駅から国道55号線を約1.2km先、新海部大橋で海部川を渡ります。渡ってすぐ信号を左折し約500m先、旧海部中の建物を過ぎた右手に城址碑、説明板があり、ここから登ります。
 
訪城備忘録

廃校になった中学校の横に駐車場と碑と説明板があります。観音庵との間が切通になってます。その反対側を登って行きます。主郭から見て北西方向の尾根の段郭を登って行き、中腹の郭で南へ登ると主郭と言う感じです。中腹の郭あたりまでは太平洋が見渡せ眺望はいいです。以前より草刈りされて整備されているようです。段郭の切岸底部に石積みの痕跡のような箇所もあります。主郭はL字に掘り込んだ箇所があり、土塁となった東側やその掘り込んだ内側に石垣がありますが、どこまで当時のものかはわかりません。ここは戦時中に軍の設備があったようですので、その痕跡何のかもしれません。南側へ下りているとまた段郭が連なりますが、意図や遺構があるという感じではないです。南端には大きな堀切状がありますが、これも鞍部を近世に成形したものだろうなと思います。この大堀切から東側の住宅街に下りて、三つ筋の一番奥(山裾)に小さな祠と「御陣屋」という石碑があります。また、登り口までもどる道沿いに「判形人屋敷」の石碑もあります。

麓の城址碑
歴史

永禄年間(1558〜70年)に海部友光が築城したとされます。天正五年(1577年)に長曾我部元親に攻められ落城。天正十三年(1585年)、豊臣秀吉の四国攻め後に阿波は蜂須賀家政に与えられ、海部城には中村重友が入りました。阿波九城のひとつと言われました。(阿波九城/一宮城・撫養城・西条城・川島城・脇城・大西城・牛岐城・仁宇城・海部城) 元和元年(1615年)の一国一城令で廃城になりました。その後、代官が置かれ、麓に陣屋が置かれました。

主郭土塁     麓の説明板
太平洋を遠望(左:出羽島 中:津島 右:大島)
デュアル・モード・ビーグル(DMV) 線路から下りたところ
  
登り口付近      観音庵跡
登り口
北西の段郭
眺望
眺望
二の郭付近
主郭の土塁と石塁
主郭の土塁と石垣
主郭土塁の石垣
西下から主郭を見る     西下の段郭
南の段郭
城域南下の堀切?(鞍部だと思う)
城跡遠望
海部陣屋 3879B  
   陣屋碑       御判形屋敷碑

判形人(はんぎょうにん)は、元々は細川氏の家臣であった人たちで、蜂須賀家から判もの(証文)をもらった方々であったようで、平時は農民・漁民であるものの、藩命があった際には出動するという役割であったようです。陣屋があった頃に三十六名という記録もあるようです。

日和佐城  3877 
@ ひさわじょう A住所:海部郡美波町日和佐浦  旧:海部郡日和佐町
B目標地点:城山公園  C形式:平山城  D比高:50m E現況:公園
F遺構等:郭・模擬天守・説明板 G時代/人物:戦国期/氏  H満足度:途中断念
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間: ーー分  J撮影・訪問時期:2022年11月

徳島市方面からは徳島自動車道を経由し、国道55号線をひたすら南下していくことになります。徳島インタから約90kmで日和佐駅(道の駅日和佐)です。ここの東側の城山が城跡ですが、この日は先を急いでいたので寄りませんでした。遺構らしきものは無く、模擬天守風の展望台があるという感じのようです。

 
模擬天守遠望    日和佐駅から     薬王寺遠望
日和佐駅の案内板

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