日向 高鍋城



ファイルNo4257


               岩坂門石垣           

@ たかなべじょう 
  別名 舞鶴城 財部城 

A住所:児湯郡高鍋町上江
    

B目標地点:舞鶴公園・舞鶴神社・高鍋農高
C形式:平山城  D比高:70m 
E現況:公園・山林

F遺構等:郭・石垣・堀・土塁・説明板
G時代/人物:平安末期・江戸期/土持氏・秋月氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  駐車場から20分

J撮影・訪問時期:2025年09月

  

道案内 

東九州自動車道の高鍋インタを下り、県道308号線に入ります。約600m先の信号を直進して県道19号線に入ります。約4km先、小丸大橋北詰の信号を右折します。<県道19号線のまま> 約1.5km先、高鍋町宮越の信号を左折し、県道304号線に入ります。約600m先の信号を左折します。約1.5km先の高鍋町黒谷の信号を直進して県道24号線に入ります。約400m先の左手に駐車場があります。

訪城備忘録

訪れた時期が悪かったのか、岩坂門周辺の二の丸までは麓なので整備されてますが、長峰門跡から先、江戸期本丸、その上の詰の丸までは草が伸び放題で、高石垣もほぼほぼ見えないというくらいに草ぼうぼうでした。

県道沿いに舞鶴公園の駐車場があり、二の丸の門である岩坂門の石垣が残ります。県道の反対側、高校のあたりは三の丸にあたり、その外側に水堀が残っています。大手門跡もありますが、そこまでは行きませんでした。岩坂門の右手は舞鶴神社で、正面の石段を登って行くと長峰門跡でここに広い平坦地があり、これは江戸期の主殿(本丸)の跡になります。さらに上に登ると広い郭があり、頂部の詰の丸との切岸に高石垣がありますが、前述の通り、草ぼうぼうでほとんど見られませんでした。石垣の横を通って登り、左手に進むと詰の丸の虎口があります。<夏場は草ぼうぼうです> 詰の丸には中心に砲台状の櫓台のごとくの高まりがあり、北側と東側に平坦地が延びています。東側端には土塁が残ります。詰の丸には御三階櫓があったとされますが、発掘調査では確定できなかったと資料には書かれてました。

高石垣を期待して訪城したんですが、やや残念でした。
歴史
主殿説明板







平安末期、縣(後の延岡)の土持氏の一族の土持秀綱が財部城(たからべ)を築いたのが始まりとされます。長禄元年(1457年)、伊東祐堯が財部土持氏を下し、伊東氏の家臣の落合民部少輔が城主となりました。天正五年(1577年)、島津氏に敗れた伊東氏(伊東義祐)は大友氏を頼り豊後に落ち延び、財部城には島津氏の家臣の川上忠智が入りました。翌年からは鎌田政心が入りました。天正十五年(1587年)、豊臣秀吉の九州討伐で島津氏は降伏し、秋月種実の領地となり、種実は櫛間城に入りましたが、慶長九年(1604年)、二代秋月種長は本城を財部城に移しました。三代種信の時、寛文九年(1669年)に本丸御殿などを建て、城名を財部城から高鍋城としました。秋月氏は明治維新までこの地を治めました。


高石垣       山頂郭土塁
現地説明板より
  
水堀
水堀
岩坂門石垣
岩坂門石垣
長峰門への石段
長峰門跡
江戸期本丸(主殿の郭)
主殿の郭の上も中世の郭
高石垣(草でなんにも見えない)
高石垣(わずかに見える石垣)
高石垣(わずかに見える石垣)
詰の丸斜面
詰の丸土塁
詰の丸(正面虎口)
詰の丸頂部切岸
詰の丸
御三階櫓跡下?

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