道案内  |
東九州自動車道の日向インタを下り、左折し国道327号線(新道)に入ります。約200m先の信号を左折し県道226号線に入ります。 約3km先の塩見橋を渡り、渡った所の冨高の信号を左折し国道327号線(旧道)に入ります。約2.5kmの信号を右折します。約500m先で塩見小学校側に右折します。小学校前のY字を右へ進み坂を登ります。約1km先、左手に塩見城の説明板があります。ここからやや戻ったところに坂があり、ここに入ります。元々は城跡公園まで車で登れたようですが、今は荒れてますので説明板の所に停めて歩いたほうがいいです。 説明板の前を通り過ぎると水月寺・城山墓園です。
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| 訪城備忘録 |
元々は城山公園として整備されていたようですが、現在は、道は倒木だらけ、公園は草木が伸び。薮に近くなってました。公園は東郭に当たるようで奥に一段上がったところが主郭のようです。主郭には細川氏が建てられた慰霊碑がありました。左手下の下りると細長い郭があり、西郭にあたるようです。 主郭には土塁が残る感じです。主郭と西郭間は虎口状で、土塁があります。城域としてはもっと大きく尾根上にあるようですが、薮過ぎて主要部を見るだけで退散しました。
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説明板
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南北朝期(1331〜91年)、土持氏が築いたとされます。長禄元年(1457年)、財部土持氏を滅ぼした伊東祐堯(すけたか)は、天正期初期(1573年〜)、綾民部左衛門義恒、子の綾筑後守恒長が城主となり、その後、右松四郎左衛門祐春が城主でした。<綾氏は細川氏の子孫で現在御子孫は細川姓を名乗られているようです。右松氏は伊東氏の分流との事です。> 天正五年(1577年)、島津氏に敗れた伊東氏(伊東義祐)は大友氏を頼り豊後に落ち延び、翌年、大友氏は日向に進攻するも耳川の戦いで島津氏に破れ、その際、祐春、義政(恒長の弟)は討死しました。留守部隊が守っていた塩見城は島津氏に攻められ落城したようです。島津氏は吉利忠澄が城主とします。天正十五年(1577年)、豊臣秀吉の九州討伐で島津氏は降伏し、塩見城は高鍋三万石で入封した秋月種長の領有となりましたが、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城になりました。
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