日向 飫肥城



ファイルNo4252

江戸期伊東氏の居城

             本丸南虎口          

@ おびじょう 
  別名 舞鶴城 

A住所:日南市飫肥町10丁目
B目標地点:
C形式:平山城  D比高:10m 
E現況:公共施設・公園

F遺構等:郭・石垣・堀・土塁・復元門
    ・碑・説明板

G時代/人物:南北期・江戸期/土持氏?・伊東氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  駐車場から15分

J撮影・訪問時期:2025年09月

  

道案内    ←駐車場

東九州自動車道の日南東郷インタを下り、右折し、県道434号線に入ります。約2km先の馬越の信号で右折し国道222号線に入ります。約3.5km先の信号で右折します。約200m先の大手門の信号を直進して、約50m先を左折し、約100m先が乗用車用駐車場です。

訪城備忘録

飫肥城は現在は中心部である、新本丸、旧本丸、大手門付近が残ると言う感じです。大手門に繋がる広小路の左側に駐車場があります。飫肥城というと大手門の写真ですよね。大手門は復元ですが、櫓門で重厚です。門をくぐると内舛形になってます。内舛形から石段を登ると本丸南側の一文字の石垣という感じで正面に横たわります。この本丸南面の石垣を見てると石垣の積み方で円弧を描いています。これは笑い積みの一種でここでは飫肥積みと呼ばれるようです。右手は幅もある長い空間で犬馬場と言います。本丸南面石垣の東端には隅櫓の石垣があります。

本丸南虎口は南側の一文字の石垣で石段を上り下りする人が大手門側からは見えない構造になってます。ただ、この南虎口は江戸期は開かずの門であったようです。本来の本丸へのルートは大手門から石段を登り、いったん左手に進み、南の本丸石垣が切れたところで右に曲がり、石段を登って枡形虎口に入ると言う事になります。この本丸虎口、現在復元の土塀が囲っていますが、この四隅に飫肥杉が四本そびえています。この四隅の飫肥杉のちょうど真ん中に石が埋め込まれていて、ここに立つと良いことがあるらしいです。知らんけど・・・。^^;  この本丸虎口、外枡形であり、本丸内に入るとまた枡形状で結構大きな虎口です。

本丸に入ると右手方向にはグランド、小学校になってます。本丸虎口側には城郭建物風の飫肥城歴史資料館が建ってます。本丸枡形虎口の西側、10mほど上は松尾の丸で、今は城郭御殿風の松尾の丸御殿の建物が建ってます。背後に土塁が残っているようですし、松尾丸と旧本丸の間も往時の堀(堀切)跡のようです。 さらに奥へ行くと旧本丸の石段です。枡形虎口で石垣が築かれています。旧本丸内は飫肥杉が林立してますが、非常に広い空間です。北側から西側にかけて土塁と思われる高まりが続きます。また、北門が再現されてます。

大手門から広がる飫肥の町は九州の小京都と言うようです。東手には武家屋敷通りがあり、家老屋敷が残ります。 まっすぐ大手道通りを進みと商家の石垣、江戸期商家が残ります。

江戸期五万石程度の大名の城ですが、思った以上に石垣が使われ、戦国期の攻防もあったためか大きな城だったんだなと感じます。
歴史
大手門前城址碑




築城時期、築城者は定かではないようですが、南北朝期、延岡(縣)、高鍋に勢力のあった土持氏が築城したという説もあるようです。その後、飫肥郷に勢力のあった野辺氏、野辺氏の一族の飫肥氏が在城したとも伝わるようです。

宝徳三年(1451年)、島津氏が飫肥を支配し、長禄二年(1458年)には島津氏家臣の新納忠続(しんのうただつぐ)が入りました。文明十七年(1485年)、伊東氏が飫肥城を攻撃しますが、当主の伊東祐国が戦死するという状況でありました。 忠続は本領の志布志に帰還し、島津忠簾(島津豊州家二代)が入り、以後、島津豊州家が四代八十年、ここを治めました。 飫肥を巡る島津氏と伊東氏の攻防は二十八年続きました。天文十八年(1549年)、天文二十年(1551年)、永禄六年(1563年)と伊東氏は飫肥城を攻め、永禄十一年(1568年)、伊東義祐はついに飫肥城を取り、子の祐兵(すけたけ)を飫肥城に入れました。元亀三年(1572年)、伊東義祐は島津義弘に敗北し、衰退し、天正四年(1576年)には飫肥城は島津氏の支配に再び入りました。天正五年(1577年)、伊東義祐は本城の佐土原城を捨てて、大友氏を頼って豊後に落ちました。

祐兵も流浪しますが、一族の縁で豊臣秀吉に仕え、天正十五年(1587年)の豊臣秀吉の九州攻めで先鋒を担い、その功で日向で知行を与えられ、天正十六年(1588年)、飫肥城に復帰しました。

元々、飫肥城は南九州の典型的な群郭式であったようです。(今は改修と現代の開発で周囲の郭が消滅しているため群郭式のイメージはないですね。) 現在見る虎口石垣は初代祐兵、二代祐慶、三代祐久の間で改修されたようです。さらに、たびたびの地震で旧本丸が使えなくなり、貞享二年(1685年)、中の丸とその周辺をならして石垣を構築し新本丸としました。 飫肥城は祐兵から一四代、伊東氏が、江戸期を通じて藩主でした。

    大手門内枡形      旧本丸石段と石垣
  
広小路から大手門
大手門(復元)
大手門内側
大手門内側西側石垣
大手門内側東側
大手門修復の碑文(正徳三年(1713年))
門内石垣 (亀甲積みで笑い積みかな) 
大手門内枡形から本丸方向
大手門内枡形 
大手門内舛形西側築地塀の控柱
大手門から(石垣・土塀の重なり具合で複雑に見えますね。)
犬馬場前と大手門から上がったとこで正面を遮る石垣
笑い積み(飫肥積み)の石垣<石垣が円弧を描いてる>
本丸南側門(江戸期は開かずの門であったよう)
本丸南虎口石段と石垣
本丸南虎口の障壁石垣
本丸南虎口上から
本丸隅櫓石垣
旧本丸石段と石垣
中世期の群郭式縄張りの名残?<堀(堀切)のように見える>
旧本丸虎口
旧本丸虎口石垣
旧本丸の門の礎石
旧本丸(飫肥杉が林立してます。)
旧本丸  
旧本丸土塁
旧本丸(四角い岩は手水鉢らいいです。)
旧本丸北門(復元)
松尾の丸
本丸西側の巨大な枡形
桝形から本丸を見る
本丸西側枡形虎口(きれいに四隅に飫肥杉があります。)
本丸西側虎口を石段下から
本丸石垣
本丸隅石垣
松尾丸下石垣
上の石垣拡大 (笑い積み(飫肥積み)の円弧に積まれた石垣)
大手門東側空堀沿い土塁(犬馬場より)
大手門西側空堀沿い土塁(郭内より)
大手門と城址碑
大手門東側空堀(本丸南側)
大手門東側空堀と大手門の土橋石垣(本丸南側)
本丸東側空堀
大手門東側空堀と大手門の土橋石垣
武家屋敷通り
大手門通り
後町通り(西側)
後町通り(東側)

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