日向 佐土原城



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               大手道の堀切             

@ さどはらじょう 
  別名 田島城 鶴松城 松鶴城 

A住所:宮崎市佐土原町上田島
    旧:宮崎郡佐土原町

B目標地点:佐土原歴史資料館鶴松舘
C形式:山城  D比高:50m 
E現況:山林・公共施設

F遺構等:郭・堀切・土塁・石積み・碑・説明板
G時代/人物:戦国期/伊東氏・島津氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  山城:15分

J撮影・訪問時期:2025年09月

  

道案内 

東九州自動車道の西都インタを下り、インタ入口の信号を左折し国道219号線を南下します。約3km先を左折し県道324号線に入ります。約1km先の東春田の信号を右折します。約500m先の右手が大きな駐車場で、奥が佐土原歴史資料館鶴松館です。ここの裏手より山城部は登ります。

訪城備忘録

現在、鶴松館が建っている場所は二の丸と呼ばれ、江戸期の政庁のあった場所です。江戸期では山城部は放棄されていたようですが、江戸期でも山城部を本丸と呼んだようです。

山城部分には鶴松館の裏を左手に行くと大手道の入口、まっすぐ奥へ行くと中の道の入口があります。行きは中の道で行き、帰りは大手道で戻ってきました。数年前の豪雨被害で長い間立入禁止でしたが、主郭(本丸)地区は入れるようになってますが、南の城、松尾丸方面は立入禁止のままになってます。

中の道は谷間を進んで尾根に登ります。尾根に登った大きな岩盤に人工的な穴が開いており、城門の跡ではないかと言われるようです。主郭(本丸)方向に進むと尾根に郭がいくつかありました。主郭(本丸)下から枡形で坂虎口になっていてそこを登ると主郭(本丸)です。

他のサイトを見るときれいに草が刈られてますが、私が行った時は膝から胸くらい草が伸びてました。これは時期なのか、山城部は豪雨被害の影響で整備がされにくい状態なのか?
奥の殿司丸、天守台も草が伸びていてよくわからない状況でした。他のサイトを見ると天守台は基壇の石垣が並び、天守台内には栗石が大量にある感じですが、この日は草の中に石列がわずかに見え、栗石の一部が露出している程度でした。天守台には三層三階の天守があったと伝わります。戦国期の九州唯一の天守であったようです。

帰りは大手道を戻りました。南の城、松尾丸方面には豪雨災害の影響で立入禁止でした。大手道途中に堀切表示の個所がありました。今は道になっているので堀切と言う感覚にはなりにくい状況です。この城の防御として堀切は少ない感じがします。大手道の一部は崩壊したままで、迂回路が作られてました。大手道の入口は岩盤の間を通る感じの特異な場所でした。

江戸期は麓の二の丸が政庁だったせいで山城部は放棄されてました。そのため、遺構は良く残っていると思うのですが、草と薮に阻まれて満足に見学は出来なかったのは残念でした。

歴史
主郭(本丸)の城址碑



築城時期は定かではないようですが室町前期(南北朝期の頃)、伊東氏の一族の田島休祐が築城したとされます。応永三十四年(1427年)、伊東祐賀が入り佐土原氏を名乗りました。天文五年(1536年)、伊東義祐が入りましたが、翌年に城は焼失、天文十二年(1543年)に再築されました。永禄十一年(1568年)、義祐は佐土原城を隠居城と定めて居住しました。しかし、元亀三年(1572年)、島津氏の合戦に敗れて衰退し、天正五年(1577年)、伊東氏一族は大友氏を頼り豊後に落ち延びました。 天正七年(1579年)、島津義久の弟の家久が入り支配しました。天正十五年(1587年)の九州征伐で島津氏は全面降伏しましたが、家久は直後に死去します。(暗殺とも言われるようです。) 佐土原は家久の子の豊久が継ぎました。慶長五年(1600年)の関ケ原の戦いにおいて豊久が討死したため、一時期幕府の直轄領となりましたが、慶長八年(1603年)、島津以久(もちひさ)<島津四兄弟(義久・義弘・歳久・家久)の従弟>が三万石で入り明治維新まで続きました。二代忠興の時に山城部を廃して二の丸に政庁を建て、これを江戸期の佐土原城としました。

岩盤の大手道     鶴松館
現地説明板より<赤色立体図・加筆>
  
鶴松館と手前は堀跡
岩盤の間を通る大手道
岩盤の間を通る大手道
大手道の堀切
大手道
中の道
   中の道の岩盤にある人工的穴(門の支え穴?)  
尾根上の道
中心部手前の道 
主郭(本丸)下の郭
主郭(本丸)枡形虎口
主郭(本丸)枡形虎口を上から
主郭(本丸)
主郭(本丸)土塁
殿司丸と天守台
天守台
天守台裏込め石?
天守台から主郭方面
主郭(本丸)西下切岸
主郭西下郭土塁
鶴松館

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