道案内  |
東九州自動車道の延岡インタを下ります。国道10号線から県道241号線に入り、約600m先で松尾橋で五ケ瀬川を渡ります。約2.5km先、左手の五ケ瀬大橋の信号を越えて市道に入ります。約1km先の延岡市役所の信号で右折します。約300m先、右手の中小企業振興センタの建物を越えたところで右折した先が公園の南側駐車場です。北側駐車場は延岡市役所の信号の手前、北城山街区公園の隣接部が駐車場のようです。
西の丸には延岡市役所の信号の手前約400mの信号を右折し、約100m先の右手の市立図書館のところで右折し、約50m先を左折した延岡城・内藤記念博物館の下に石垣が残っています。
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| 訪城備忘録 |
「千人殺しの石垣」で有名な本丸西下の石垣、高さ19mあり、根石の一部を外すと石垣が崩れ、千人を一気に殲滅できるとされます。高さは19mあるようです。確かに高いし、反りが入ってます。なかなか圧倒される石垣でした。
さて、城跡ですが、大手は北側で、北側駐車場から入るのがよかったようですが、南東麓の駐車場から入ったので、搦め手から入ったことになります。少し登ると三の丸、及び、御石門に至ります。さらに吹上坂を登ります。登りきると御三階櫓跡に至ります。この上に天守台(天守郭)がありますが、天守が建てられたという記録がないため、天守は建てられず御三階櫓が天守代用であったようです。さらに上に登ると天守台(天守郭)です。虎口の石垣がありました。天守郭には釣鐘堂があり(往時は太鼓櫓)、今も定期的に鐘は鳴らされてようです。
天守郭の西下が本丸です。内藤氏の銅像や石碑が立っています。本丸から二の丸へ下りていく石段がコの字状に曲がり下りて最後は長坂と言う石段を下り二の丸に至ります。 この枡形虎口には二階門櫓がありましたが、今は柱の礎石と石垣が往時を物語ります。長坂を下り切ったところが本丸西下高石垣、通称、千人殺しの石垣です。確かに高く、反った形状でなかなかの迫力です。刻印も残るようですが、よくわかりませんでした。二の丸は広場と言う感じです。
千人殺しの石垣の北側に北大手門が復元されてます。ここの東面石垣には刻印がたくさんあります。ここのは明瞭です。有馬氏時代の刻印であるようです。 北大手門の外側には内藤氏の墓所もあります。
搦め手側から入ったこともあり、北側駐車場に残る石垣、内堀跡、及び、二の丸の西側下の石垣を見落としてます。 特に二の丸西下の石垣は本丸高石垣千人殺しの石垣)の小型版という趣のようで見てこなかったのが少し残念です。
北大手門から約300mほど西に離れた所に西の丸があります。ここは往時は藩主の居館であったようです。石垣が残ってます。郭には延岡城・内藤記念博物館が建ってます。
自分的訪城カウントの4000城訪城記念の城となりました。 行けば増えるものではありますが、よくも飽きずに27年ほど城に行ったものだと思います。(再訪は再度1城にはカウントしてません。(笑)) 4000城ですが、もっと多くを廻っておいでの猛者はたくさんおいでですし、離島や北海道、沖縄の城も含め47都道府県を廻っておいでの猛者もあくさんおいでですので、私の記録は私自身のプチ自慢です。
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天守台鐘撞堂の城址碑
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天正十五年(1587年)、豊臣秀吉の命で高橋元種がこの地に入封して松尾城を居城としました。関ケ原の戦い後、元種は縣城の築城を開始し、慶長八年(1603年)に完成しました。慶長十八年(1613年)、元種は改易され、有馬氏が入封しました。有馬氏は三代続きますが、有馬康純によって承応二年(1653年)から明和元年(1655年)にかけて大改修され、城の名も延岡城と改められたようです。有馬氏の後は三浦氏、牧野氏と藩主は代り、延享四年(1747年)、内藤正樹が入封、以後、内藤氏が八代続いて明治維新を迎えました。
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