大隅 帖佐館



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                  南東角の石垣 (昭和の積み直しらしいです)         

@ ちょうさやかた 
  別名 島津義弘居館・御屋地(おやじ) 

A住所:姶良市鍋倉
    旧:姶良郡姶良町

B目標地点:稲荷神社
C形式:平城  D比高:ーーm 
E現況:神社・宅地

F遺構等:郭・石垣・碑・説明板
G時代/人物:戦国期/島津氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  2分

J撮影・訪問時期:2025年09月

  

道案内 

九州自動車道・東九州自動車道の加治木インタを下り、国道10号線(加治木バイパス)に入ります。約3.5km先のみろくの信号で右折し県道42号線に入ります。約2km先帖佐小の所で右折します。(米山の信号の約100m手前) 約400m先の正面の稲荷神社が城跡です。正面でT字を左に行きます。約25m先を右折しまた約25m先を左折すると花園寺跡の駐車場がありここに駐車します。
 
訪城備忘録

現在は稲荷神社の境内になってますが、東面、南面の石垣が残ってます。境内には井戸跡、維新公邸址の碑がありました。大手は東からであったようです。東南角の石垣が隅石垣ではなく、面になってます。しのぎ石垣でもなく、東南のため鬼門でもないのでなんでしょう? ※後日、城友に教えてもらいましたが、昭和に崩落して積み直しした石垣部分だそうです。

隣接する花園寺跡は平面復元と説明板が整備され、米良氏の武家門が復元されてます。 さらに県道42号線から館跡に入る入口にある帖佐小学校は江戸期の地頭仮屋の跡になります。説明板と碑が立ってます。この周辺に麓があり、武家屋敷等があったようです。

島津義弘は豊臣秀吉の裁定で大隅から薩摩に領地変更され、義久は逆に薩摩から大隅に領地替えされてます。義弘は鹿児島(当時は内城)に入ることを良しとせず、大隅と薩摩の境となるこの地に居館を構えました。後、内城には義弘の息子で義久の婿養子となった忠恒(家久)が入り、島津氏は一時期三拠点体制になってます。義弘が帖佐を居館とした心境はどんなんだったのかな。

「維新公邸址」の碑
歴史

文禄四年(1595年)、島津義弘が築城しました。慶長十一年(1606年)、平松城に移り、さらに、翌年に加治木館に移ったとされます。

大手門       石垣
  
島津義弘居館跡の碑       石垣         
南面西側の石垣
南面東側石垣
東面石垣
大手門北側東面石垣
館内
隣接の花園寺跡に建つ米良家門(復元)
帖佐地頭仮屋の碑と説明板(現;小学校)

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