大隅 平松城



ファイルNo4245


              石垣              

@ ひらまつじょう 
  別名  

A住所:姶良市平松
    旧:姶良郡姶良町

B目標地点:重富小
C形式:平城  D比高:ーーm 
E現況:公共施設

F遺構等:郭・石垣・碑・説明板
G時代/人物:期/氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  2分

J撮影・訪問時期:2025年09月

  

道案内 

九州自動車道の姶良インタを下り、信号を左折し県道57号線に入ります。約3km先、Y字を斜め右、県道57号線旧道に入ります。約500m先の信号を右折し、約150m先を左折すると右手が重富小の正門で、ここが城跡です。
 
訪城備忘録

現在は重富小学校敷地になってます。往時は全周が石垣であったようですが、現在残っているは北面だけのようです。小学校の正門は平松城の虎口ですが、正門に旧鹿児島県庁の門柱が移築されています。現在城址碑が立っている所に以前は説明板があったようですが、今はありませんでした。すぐ西側に岩剣城がそびえています。

城址碑
歴史

岩剱城は築城時期は不明ですが、享禄・天文年間前期(1528〜1530年代)に祁答院良重(けどういんよししげ)が築いたとされます。祁答院氏は蒲生範清らと組み島津氏に対抗しました。天文二十三年(1554年)、島津義久、義弘、歳久の兄弟が岩剣城を攻め落城させます。その後、義弘が城代として入りますが、あまりに急峻なため、麓に居館として平松城を築きました。関ケ原の戦い後、慶長十年(1605年)から約1年間、帖佐館から平松城に移り居城とし、その後、加治木館に移りました。 島津継豊(島津氏22代、薩摩藩5代)の時、元文二年(1737年)に先代吉貴の意向があって、弟の忠紀に越前島津氏を再興させ、重富島津氏として平松城を居館とし、明治維新まで続きました。

小学校正門(虎口)       北西角石垣
虎口石垣
  
北面石垣
  
           岩剱城遠望        岩剱城登城口へ県道57号線入口
現地説明板より

近くの城・関連の城: