大隅 加治木館



ファイルNo4239

島津義弘終焉の地

               護国神社の石垣             

@ かじきやかた 
  別名 島津加治木館 

A住所:姶良市仮屋町
    旧:姶良郡加治木町

B目標地点:加治木護国神社・加治木高校
C形式:丘城  D比高:10m 
E現況:公共施設・宅地

F遺構等:郭・石垣・碑
G時代/人物:江戸期/島津氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  2分

J撮影・訪問時期:2025年09月

  

道案内 

九州自動車道・東九州自動車道の加治木インタを下り、加治木インタの信号を左折し県道55号線に入ります。約700m先の新道交差点の信号を右折します。右側が加治木高校でその先が護国神社、その先が柁城小(だじょう)になります。
 
訪城備忘録

夕方遅くに訪城したため細かくは見ていません。加治木高校から護国神社まで石垣が残ります。義弘時代か加治木島津氏の仮屋の石垣かはよくわかりません。護国神社の入口(往時は虎口?)と神社の横に「義弘薨去(こうきょ)碑」があります。

加治木島津屋形の碑
歴史

加治木城とは別です。 島津義弘は、慶長十二年(1607年)、帖佐館、平松城を経て加治木館に入りました。元和五年(1619年)、義弘が亡くなると、島津氏十八代忠恒(家久)が三男忠朗(ただあき)のために修復し、元々の加治木館である加治木高校側を東ノ丸とし、柁城小(だじょう)側まで拡張し、こちらを西ノ丸と呼称されました。忠朗を初代とする加治木島津氏は1万9千石で明治まで続きました。

護国神社南面の石垣
  
      義弘薨去地碑        加治木高校の校門の石垣

加治木高校校門から護国神社側石垣

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