大隅 国分城



ファイルNo4237


              朱門(あかもん) <旧南門・移築>             

@ こくぶじょう 
  別名 舞鶴城・国分新城 

A住所:霧島市国分中央2丁目
    旧:国分市

B目標地点:国分高校・国分小
C形式:平城  D比高:ーーm 
E現況:小学校・高校

F遺構等:郭・石垣・門・堀・碑・説明板
G時代/人物:戦国期/島津氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  2分

J撮影・訪問時期:2025年09月

  

道案内 

東九州自動車道の国分インタを下り、インター入口の信号を直進して県道472号線に入ります。約2km先の国分銅田の信号を右折し、約200m先の国分南公園前の信号を左折します。(左折し約200mほど進んだ右手が徳待庵跡です。) 約2.5km先の信号を左折します。(この信号を右折すると金剛寺跡を経て城山公園(隼人城)まで登れます。) 左折し約400m先右手が国分高、国分小でこの一帯が城跡です。
 
訪城備忘録

城としては国分小側であったようです。国分高校側は地頭仮屋の敷地になるようです。旧国分高校校舎の所から現国分高校、国分小学校まで約400mほど一直線に石垣と堀が残ります。国分小学校側の東端(現国分高校との境くらいの場所に朱門が移築されてます。元々は南門として城内にあったものが払い下げられ、再び現在地に移築されたものです。ちょうど高校の下校時でしたが、生徒さんに声をかけられたりしましたが、品のよさそうな生徒さんたちで、頭のよさそうな学校ですね。^^V

城跡説明碑
歴史

慶長九年(1604年)、島津義久が築き、富隈城より移りました。義久が慶長十六年(1611年)に没した後、亀寿姫(義久三女、忠恒(家久)正室)が移り住みました。亀寿姫が寛永七年(1630年)に没した後は隣接地(現国分高校敷地)に地頭仮屋が置かれました。

     石垣      舞鶴城屋形碑
   
旧国分高校校舎側
現国分高校側石垣と堀
朱門(あかもん)
石垣と堀
小学校側石垣

隼人城  
住所:霧島市国府上小川   目標地点:城山公園  遺構:なし

国分城の裏山で現在は城山公園になっていて城山タワーが建ってます。遺構は無い感じです。他のサイトを見ると岩盤の門跡があるようではありますが・・・。


島津義久(分骨)墓
   金剛寺跡     徳持院跡

金剛寺跡:住所:霧島市国府中央2丁目11
徳持院跡:住所:霧島市国分上井

双方のお墓も分骨されて建てられたもののようです。寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になり、墓だけが残ってるという感じです。
金剛寺跡の墓       徳待院跡の墓

近くの城・関連の城: