大隅 鹿屋城



ファイルNo4234


               堀             

@ かのやじょう 
  別名 亀鶴城  

A住所:鹿屋市北田町
    

B目標地点:城山公園
C形式:山城  D比高:50m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀・土塁・碑・説明板
G時代/人物:鎌倉期/津野氏
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  麓駐車場から10分

J撮影・訪問時期:2025年09月

  

道案内 

東九州自動車道の鹿屋串原ジャンクションから県道552号線に入ります。約4km先の信号で右折し国道269号線に入ります。約5.5km先の寿二丁目の信号で国道は右折ですので右折します。約2km先の信号で右折し坂を登り約200m先右手に城山展望台への道になりますが、車は停められませんので、最後の右折の信号手前に城山公園の駐車場がありますのでここに停めて行きます。(なお、坂をそのまま進むと鹿屋市文化会館・中央公民館に至ります。)

訪城備忘録

一帯は城山公園とはなりますが、中城あたりはゲートボール場になっているようですし、二の郭は公園(城山展望台)、主郭は水道施設になっているため、城の姿は相当に変わっている感じです。城山公園駐車場から道を登ると二の郭に向かう右折の道の手前に説明板があります。群郭式の縄張ですので、二の郭に向かう大きな堀状はまさしく群郭式の堀と思います。この手前に小さな城址碑がありました。堀を抜けると二の郭です。公園に整備され、入口に城址碑があり、また、城山展望台がありました。主郭は水道施設になっていて改変が激しそうです。二の郭の端の長い盛り上がりは土塁痕なのかもしれません。 全体的にはあまり遺構は無いと言う印象です。

歴史
城址碑









築城時期、築城者は定かではないようです。島津氏三代久経に時代に津野四郎兵衛が鹿屋城が城主で、承久年間(1219〜22年)とされていますが、定かではないようです。応永七年(1400年)、肝付氏の一族の鹿屋忠兼が城主になったとされます。島津氏と肝付氏は連携と対立を繰り返し、天正二年(1574年)、肝付氏は島津氏に臣従し、天正八年(1581年)には領地も没収されます。代って、伊集院忠棟が高山城(肝付氏の本城)と鹿屋城を支配し、鹿屋城は大改修されます。天正十五年(1577年)の豊臣秀吉の九州征伐では忠棟が島津氏存続のための交渉を行い、文禄四年(1595年)、豊臣秀吉の命で都城に八万石で封じられ、鹿屋を去ります。慶長二年(1597年)頃、垂水島津久信が在城したとされますが、その後は廃城となったとされます。但し、江戸期は御仮屋が近くにありました。


堀      二の郭
現地案内板より
    説明板       堀手前の城址碑
  
二の郭から主郭を見る
二の郭の城山展望台
鶴羽城 f4235

鹿屋市花岡町(鶴羽公民館・鶴羽城山公園)  

公園は緊急ヘリポートでただっぴろい広場で遺構がある感じがしません。強いて言えば周囲が土塁状になっていて一部は遺構なんでしょうか?
公園は丘の上なんですが、麓の公民館近くに江戸期の御仮屋の石垣と標識があるようですが、見逃しました。^^;

 
     主郭    公園入口の標識
宇喜多秀家潜居地 f4236

垂水市牛根麓  
国道220号線の牛根の信号から約3.5km桜島方面に行ったところの右手が下屋敷跡で碑と説明板があります。左手、川の手前の路地を入っていくとガードの下に説明板があり、その先細道を登って行くと中腹の平坦地、その上が尾根で尾根を登って行くと上屋敷になりますが、尾根に登ったところで時間が無くなり上屋敷まではいきませんでした。

慶長五年(1600年)、豊臣五大老であった岡山城主宇喜多秀家は西軍の副将として参戦しましたが、西軍は破れ、秀家は島津氏をたよって薩摩に逃れました。島津氏は平野氏に秀家を預け匿いました。慶長十一年(1606年)、秀家は八丈島に配流となりました。

     説明板      上屋敷への尾根
中腹の平場       下屋敷の碑
近くから桜島遠望
有村溶岩展望台 
溶岩
桜島遠望
展望台から桜島の反対側の景色

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