道案内 ←駐車場<災害復旧間は使えません> ←公園内駐車場の一つ |
九州自動車道の人吉インタを下り、信号を右折し県道54号線に入ります。約200m先の信号を左折します。約1.7km先、五日市の信号で直進し国道445号線を横切ります。約100m先で球磨川にかかる水の手橋を渡ります。渡ってすぐの右手に駐車可能なスペースがあります。さらに約200m進み、十字路を左折し約200m先の左手が駐車場です。東側一帯が城跡主要部で、西側一帯は現在は大きな広場になっていますが、往時は武家屋敷です。
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訪城備忘録 |
訪城した2023年春、2020年の豪雨災害の爪痕がまだ残る状況でした。印象は2万2千石の城だからと思ってたんですが、思った以上に広く大きな城でした。大和高取城も壮大な石垣の城ですからとは思いますが。^^;
水の手橋から東側に入りました。すぐに御館の北側の石垣があります。この石垣は槹出(はねだし)工法というヨーロッパの技法を用いた武者返しで、日本には五稜郭と東京の台場とここにしか無いとの事です。 この石垣の北側には水の手門があり、球磨川に下りられます。そのまま東に行くと堀合門(当地にあるのは復元、オリジナルは市内に移築されています)があり、米蔵に続いて下御門があります。下御門の石垣はなかなかの大きさがあり重厚感もあります。
下御門から登った上が三の丸です。 この三の丸は本丸、二の丸をL字に囲むような大きな郭です。梯郭式城郭がよくわかります。 三の丸の西側は南側が一段高くなって、境には塩蔵があった石垣が残ります。二の丸には大きな桝形の中御門が正面ですが西側には石段付きの埋め門がありました。 二の丸は御殿があったようです。本丸は二の丸のさらに上で、主要部の中では一番小さな郭です。天守とかは元々無く、社が建てられていたようですから神聖な場所であったんでしょうね。
主要部から下御門に下りて東へ時計回りに歩いて見ました。北東端に谷口渡の石垣、清水観音、、地蔵院の石垣が残り、さらに、案内板からすると硝煙蔵があったりし、中世人吉城との間の谷を歩いて行く感じです。 主要部南側の道路に出たら西へ歩いて行くと、藩武芸所のあった付近に大きな石垣があったりします。その先は御館に戻ります。御館の南側の水堀は蓮池と言う溜池です。そこに架かる石橋は明和三年(1766年)に作られたとの事です。
御館(相良神社)の西側一帯は往時は武家屋敷でしたが今は広大な広場になってます。 ところどころに家臣屋敷の井戸が残っていたりします。特に相良内蔵助の大井戸遺構は地下室に井戸があるものです。 もうひとつ同様地下室井戸は人吉城歴史館内にありますが豪雨災害の影響で長く休館中です。西地区の西端の大手門があり、ここに多聞櫓と長塀が復元され、北西端には角櫓が復元されています。
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城址碑
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建久九年(1198年)、相良長頼が人吉の地頭に任じられ、その際に築城され、城の形が整ったのは11代長続の頃とされます。但し、その城は現在は原城と呼ばれる現在の人吉城の南東から南の丘陵に築かれたものと思われます。長頼以後、相良氏が35代約700年の間、明治維新までこの地を治めました。現在の姿は天正十七年(1589年)、20代の相良長毎(ながつね)が大改修を始めたものとされ、完成は22代頼寛の時代、寛永十六年(1639年)頃であったようです。江戸期は2万2千石の大名として続いてます。
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