道案内 |
国道三号線の有料道路(日奈久芦北道路)の芦北インタを下り、信号を右折し県道27号線に入ります。約200m先を右折し「栫橋」で佐敷川を渡り県道305号線を進みます。約400m先(ほぼT字路に見える)を右折します。約500m先、左側の「みかげ公園」を過ぎてすぐを左折します。あとは道なりに約700m登ると城山公園の駐車場です。
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訪城備忘録 |
駐車場から遊歩道を5分も歩けば主要部下に至ります。 発見された当時(地元の方は以前からご存知やったんでしょうけど、城跡として認識されてからと言う意味で)は地中から石垣が少し出ていた程度に埋もれていたようです発掘調査が進められて全体が現れても石垣としては下の3〜4段が出て来たのみで、残りは徹底的に破城されていたようです。(岐阜の高山城みたいやな) ですから今見る遺構の石垣下3〜4段目まではオリジナルのようですが、その上は積み直しの石垣のようです。史実から破城という事で、石垣上部はわざと破城された雰囲気になってます。この景色は佐賀の名護屋城の破城された石垣にも似た風景です。
往時の大手道は本丸東側下にある大手門に入る東から登って来る道があったようですが、現在は南にある駐車場から城跡の西側を登って行き主要部の北西端に出るようになってます。目の前に主要部の北側と西側の石垣の城壁が目に飛び込んできます。思わず声が上がりますね。石垣の上部、天面がすべて削られており、破城感満載です。 これは実際に破城された際のままになっているのではなく、積み直しを行った際に上部はわざと石垣を復元しなかったものだそうです。どこまで忠実性があるのかは不明ですが、破城の雰囲気は満載です。
北面石垣の西側端に近い所に石段付きの虎口があります。搦手門になります。この石段を登ると右に折れ、さらに左に折れて本丸北側下の東西を結ぶ通路になってます。この桝形状虎口は本丸西門と表示されています。この門から「桐紋」の鬼瓦が出土したと書かれた説明板がありました。本丸には土塁等もなく、発掘調査では礎石も発見できなかったとの事です。遮るものもなく360°見渡せる爽快な場所です。
本丸から通路に下りて東側に行くと礎石が3つ残る門があります。本丸東門と表示されています。ここを下りていくと二の丸です。二の丸と同じ高さで本丸の東面下、西面下まで帯郭状に空間が延びています。本丸の南側に二の丸が広がります。この東側に二の丸東門がありますが、重厚な構えになっていました。4つの礎石があり相当に大きな門があったと想像します。この門の下には大手門(追手門)があります。二の丸、本丸の下を含めてこちらも犬走り状に空間が巡っています。二の丸の南下が三の丸になります。三の丸の南東下の先が南出丸のようですが、まったく整備はされていない雰囲気でした。三の丸の南西下には堀切があるようですが見落としました。^^;
三の丸南東下から三の丸東下の犬走り状空間を北側へ進むと大手門(追手門)に至ります。ここの石段はやや急でした。途中で左に折れて登り、二の丸東門に至ります。この大手門の折れの部分の踊り場で「天下泰平国土安穏」の鬼瓦が出土したという説明板が設置してありました。本丸下を北側に進むと石垣の積み直しの説明板がありました。このまま北面まで出て、やや東側(北東側)に下りると東出丸です。 東出丸側に桜が1本咲いていて主要部城壁とマッチしてました。このまま北面下の石垣沿いを進みます。解説版にはこの面の石垣がこの城では一番古い石垣と書かれてました。その先で北西側に下りていくと北出丸になります。北出丸には土塁や石垣はないですが、主要部側端の低い石垣には矢穴のある石垣の石が転がってました。
史跡公園として整備され、できるだけ廃城時の雰囲気を残すように整備されています。破城(城割り)の雰囲気も非常にいいですね。遠路来た甲斐がありました。^^V
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駐車場の城址碑
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佐敷城という城は現在見る佐敷城の場所にあったかは不明のようですが、最初は南北朝期に薩摩の篠原氏の一族の佐敷氏が築城したとされます。戦国期に入り、島津氏と相良氏の抗争の場となり、永禄二年(1559年)、相良氏がこの城を奪いますが、天正九年(1581年)、島津義弘が攻略し、家臣の宮原景種は城主になったとされます。天正十五年(1587年)、羽柴(豊臣)秀吉の九州征伐で島津氏は薩摩に押し込められました。
天正十六年(1588年)、この地は肥後半国の領主となった加藤清正の飛び地の領地となり、これ以後は現在の佐敷城になります。清正は現在の地に築城し、加藤重次を城代としました。慶長五年(1600年)の関ケ原の戦い以降に大改修され総石垣の城になりました。元和元年(1615年)の一国一城令で廃城になり破城されましたが、寛永十四年(1637年)の天草島原の乱の際、破城が甘いという事で再破城されたと伝わります。
昭和五十四年(1977年)に石垣の一部が確認され、平成五年(1993年)から平成十三年(2001年)にかけて発掘調査がされ、平成九年(1997年)より石垣が復元されています。
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