道案内 ←登城口 |
高松自動車道の引田インタを下り、インタ北の信号を左折し国道11号線に入ります。 1.5km先の右が引田駅で、200m先くらいで左折し、引田の街中を抜けて橋を渡って引田港まで進みます。港手前で左折し、港沿いの道を400m進みます。城山麓で左折すると50mほど右手に登城道があります。ここから狼煙台経由で西野郭に至ります。あるいは、キャンプ場の馬屋池から丹後丸を経由して登れます。
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訪城備忘録 |
登城道からジグザグの道を登っていくと中腹の狼煙台のところに出ます。そこから少し登ると西の郭の櫓の石垣のところに出ます。 この城は、尾根の四方に郭群を持ち、郭ひとつは大きく、ほぼ総石垣の城のようです。細長い西の郭を抜けると左手は北の郭、右手が南の郭です。北の郭の西側下にはこの城の中で一番大きな石垣が残ります。 西の郭櫓のところからもうひとつの尾根は東の郭群があります。東の郭先端から左手に下りていくと化粧池という水の手があり、この周辺の石垣も規模が大きいものです。堀切、竪堀など、戦国の城の防御施設ははっきりしませんが、どちらかというと近世の城に近いような感じです。
なお、麓にある讃州井筒屋敷は江戸期佐野家の商家を活用された資料館・観光施設です。佐野家は屋号を井筒屋といい、醤油を商いとしました。
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登城口
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築城時期、築城者は定かではないようです。永正年間に寒川氏の家臣の四宮左近が城主であったようです。元亀元年(1570年)に三好長治に攻められ三好氏の城となるも、その後に十河存保方の城となります。長宗我部元親の四国制覇進行の中で、十河氏は対抗できず、豊臣秀吉に救援を求めました。秀吉は、天正十一年(1583年)に仙石秀久を派遣し秀久は引田城に入りますが、長宗我部氏との引田の戦いに敗れ、城は長宗我部氏の城となりました。天正十三年(1585年)の豊臣秀吉の四国征伐以後、再び、秀久が入城しました。翌年の九州征伐での秀久の失態で改易され、尾藤氏などが入りますが、天正十八年(1587年)に生駒親正が讃岐一国を拝領し、引田城に入城しますが、東に寄りすぎているため、聖通寺城に移り、生駒氏の支城となっていたようですが、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城になりました。
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