道案内 |
大分自動車道の甘木インタを下り、甘木インタ入口の信号を左折し県道8号線に入ります。約250m先の東田の信号を右折し国道322号線に入ります。約1.9km先、庄屋町の信号を左折します。すぐの甘鉄駅前の信号を右折し、国道322号線をそのまま進みます。約6.5km先が長谷山の信号です。そこから約300m先の信号を右折し秋月街道に入り、野鳥川沿いを進みます。約600m先は右折のようなカーブです。さらに約1km先を右折したら「杉の馬場」で約500m先左手が城跡です。 車では季節によっては杉の馬場に入る前の公共駐車場に停めた方がいいでしょう。
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訪城備忘録 |
やや天気が悪い日でしたが、例年より早い桜でした。桜と紅葉と合わせこの城が一番良い時期な感じです。
杉の馬場を進むとまずは城の櫓台石垣が見えます。現在、城は中学校、神社になってますが、杉の馬場側の石垣と堀が良く残っているという感じです。その先に大手門で架かる瓦坂があります。石垣の坂虎口の土橋という事になるかな?、足元は瓦が敷き詰められています。これは土砂の流出を防止するためだそうです。瓦坂の正面が大手門になるんですが、今は石垣で埋められています。新たな石垣と古い石垣の境目がよくわかります。この奥に大手門である本門(黒門)が建ってました。この門が現在は神社側に移築されてますが、秋月城以前は古処山城の搦手門であったとの事です。
さらに杉の馬場を進むと石段とその上に長屋門があります。この長屋門、よく写真で見るなぁという印象でした。やっと来れたちゅう気分です。(笑) 搦め手門側という事で、長屋門は現存の門です。長屋門をくぐると御殿があったところでしょうけど、現在は広い広場です。その横の上が垂裕神社(すいようじんじゃ)で、これの神門として本門(黒門)が移築されています。
五万石の陣屋形式ですので、そう広くはないですが、落ち着いた城跡で、時期的に桜がきれいな時期でしたので、満足できるものでした。
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説明碑
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秋月は戦国期は秋月氏の本拠地で現在の秋月城の背後の古処山城を本拠としていました。(古処山城は建仁三年(1203年)、原田種雄が築城し秋月氏を名乗ったようです。戦国期に入り、弘治三年(1557年)に大友氏に攻められ落城、11代、秋月文種が自害し、大友氏の城となりましたが、文種の次男の12代、種実は永禄三年(1559年)に毛利氏の支援を受けて城を奪還しました。天正十五年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐では島津氏に属し抗戦しましたが降伏、秋月氏は日向高鍋に転封されて古処山城は廃城になりました。)
寛永元年(1624年)、黒田長政の三男、長興が五万石で入封し、秋月城を築き、明治維新まで続きました。
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