紀伊 龍松山城



ファイルNo3205


                            二重堀切

@ りゅうしょうざんじょう 
  別名 市ノ瀬城 

A住所:西牟婁郡上富田町市ノ瀬
B目標地点:一乗寺・春日神社
C形式:山城  D比高:90m 
E現況:公園・梅林・山林

F遺構等:郭・堀切・竪堀・土塁・説明板
G時代/人物:戦国期/山本氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  二の丸駐車場から2分

J撮影・訪問時期:2017年01月

  
道案内 

紀勢自動車道上冨田インタを下り、国道42号線を右手に進みます。約2.5km先、岩崎の信号で左折し国道311号線に入ります。約8.5km先、国道の左手に大きな標識があります。ここを左折し細い道に入ります。一乗寺を越えるとY字で、左手に登ります。300m先で車ですと一度切り返しが必要な逆Vの道です。そこからさらに約900m先が二の郭です。ここまで車で行けます。
 
訪城備忘録

二の郭まで車で登りました。主郭は砲台状で大きな郭す。その下の周囲を南側の二の郭北側の三の郭、それを帯郭が繋いでいるという感じです。主郭は北にやや高く、南側は低くはなっていますが、主郭を土塁が一周しています。三の郭(北側の郭)の北東直下に二重の堀切があります。なかなか深い堀切です。この堀切の間の土塁が通路のようになっていて、途中でL字に曲がり外側の堀を土橋となって横断します。城域の東下は空堀の痕跡がまだ続き、二の郭の南西下にもわりと明瞭な空堀になってます。ここは車道の横になり、「空堀」の標識が立ってます。 縄張りとしては、主郭とその下を巡る郭というわりと単純なものですが、郭が非常に大きく居住性を感じます。詰め城というよりはここがまさしく山本氏の本城なんでしょうかね。

国道沿いの標識
歴史

築城時期は定かではないようですが、天文年間(1532〜55年)に山本忠行が築城したと言われてます。その時は市ノ瀬城と言ったようですが、子の忠継が改修し、二の郭に龍に似た松があったことから龍松山城と改名したようです。山本氏は清和源氏の系統のようで、南北朝期にこの地に勢力を持ち、南朝方として活動したようです。その後は幕府に従ったようです。戦国期に入り、天正十三年(1585年)の羽柴秀吉の紀州攻めにおいては秀吉軍に抗し、敵方3000に対し、山本康忠以下総勢300名で3ケ月戦ったようです。その後、和議を結び、翌天正十四年、紀州領主になった豊臣秀長に山本康忠は秀長に挨拶に行った際、藤堂高虎の館で謀殺されました。


    主郭                  二重堀切の内、主郭下
  
二の郭土塁                  主郭切岸
堀の土橋
二重堀切
    北の郭から主郭切岸                主郭の低土塁と城跡標識
主郭土塁
主郭土塁と虎口
二の郭下空堀

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