紀伊 | 手取城 |
ファイルNo3098 |
紀州最大級の山城
@ てどりじょう |
道案内 | |||
阪和道ー湯浅御坊道路の川辺インタを下り、左折し、県道190号線に入ります。約2km先で左折し県道26号線に入ります。約1.3km先で右折し川辺大橋を渡ります。橋を渡ると県道193号線に合流、右手に進みます。約4km先の左手に手取城への標識が出ますので左折します。約400m先を斜め左に入ります。約1kn先の左手に登り口の標識があります。 車ではそこから400mほど入ると右手に城跡用の駐車場があります。 |
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訪城備忘録 | |||
城跡は南北朝からの城という事ですが、現在残る遺構は戦国そのものの遺構です。城域は広く、本丸(主郭を)を中心に南に二の丸(郭)、東西に大きな郭を配し、その外側、北側に堀切を中心とした防御施設が配されていて見所の多い城跡です。駐車場から登城道を歩いて行くと最初の堀切に至ります。これを越えると左手上が尾根、右手が崖の道を進みます。駐車場から約750mで東の丸(郭)になります。東の丸(郭)は細長い郭です。北側に長い土塁が残ります。東の丸(郭)の東端から下に降りると外側に低い土塁を伴う郭、北側に竪堀があります。その郭の下に明瞭な堀切が残ります。さらに先にも堀切があるようですが行きませんでした。東の丸(郭)の北側下には横掘状の帯郭が続きます。主要部は二の丸(郭)が本丸(主郭)下の東側から南側まで取り囲んでいます。本丸(主郭)は砲台状ですが、さほど広くはありません。本丸(主郭)の北側下には大きな堀切があるようですが見落としました。^^; さらにその北側にも連続で3条の堀切があるようです。主郭の西下には堀切、この堀切を南に降りて行くと水の手のようです。ここには石垣が残ります。堀切の西側が西の丸(郭)となります。二段の郭でさらに西端には砲台状の櫓台があります。西の丸(郭)の西側尾根には小郭と4条ほどの堀切があります。ここは藪状態で遺構の確認はしにくい状態です。 2019年02月訪城 前回見落とした本丸(主郭)北側下の石垣と連続堀切を確認しました。なかなか深く荒らしい堀切と崩れてましたが相当量の石垣が残ります。 |
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築城時期、築城者は不明のようです。但し、この城の城主玉置氏は元々は大和十津川におり、南北朝期に紀伊に進出、玉置直虎が鶴ヶ城を築き、その一族の玉置大宣が手取城を築いたともされます。玉置氏は大宣より十代続き、天正十三年(1585年)、秀吉に臣従を決めた十代の玉置直和は、秀吉に抗戦を主張する亀山城主の湯川直春に攻められ落城しました。和佐玉置氏はここで滅亡という形になりました。(直和の子は豊臣秀長に仕えたなどで存続はしたようですが関ヶ原では西軍につき、主家は断絶したようです。) |
西の丸櫓台(のろし台) |
本丸(主郭)北側下遺構 |
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