紀伊/ 真田庵



ファイルNo2960

真田昌幸、信繁(幸村)配流の地

                            善名称院の門

@ さなだあん 
  別名 真田屋敷 

A住所:伊都郡九度山町九度山
B目標地点:善名称院
C形式:平城  D比高:ーーm 
E現況:寺

F遺構等:墓
G時代/人物:江戸期/真田氏
H満足度: 番外
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  観光駐車場から5分

J撮影・訪問時期:2015年04月

  

道案内 

京奈和自動車道の高野山口インタを下り、信号を左折し、九度山町中心部へ向かいます。約1km先、大野の信号を直進して国道24号線を横断します。約3km先の信号で右折し県道4号線に入り九度山橋を渡ります。橋を渡ってから道は道なりに左カーブですが、橋から700m先の左手路地を100mほど入ったところが善名称院です。路地は車では入りにくいため、路地の手前100mほどのところの右手に観光駐車場があり、ここに車を停めます。または、橋を渡って200m先の信号を右折し、またすぐの信号を右折した先の左手、道の駅「柿の郷くどやま」に停めた方が無難です。
 
訪城備忘録

小さな尼寺に小さな真田昌幸のお墓がありました。 寺の門や軒瓦に六文践の家紋があり、お寺はなんとなく城郭風で、八棟造というそうです。ああ真田の・・・と思わせる佇まいでした。

歴史

慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて西軍に付き、徳川秀忠の軍を上田城に釘付けにして、関ヶ原の戦いに秀忠を間に合わせさせなかった真田昌幸、信繁(幸村)親子が配流された地です。一説にはここではなく、近くの遍照寺付近との説もあるようです。本来は死罪でしたが、長男の信之が東軍に属し、正室小松姫の父親本多忠勝とともに助命嘆願が実り、ここへの配流となりました。昌幸は慶長十六年(1611年)にこの地で死去しましたが、信繁(幸村は)慶長十九年(1914年)に大阪城へ入城し、冬の陣では真田丸を築いて幕府軍に善戦しましたが、翌年の夏の陣で戦死しました。


六文践の意味は「三途の川の渡り賃」で、、死を恐れないと言う思いが込められているようです。


善名称院境内                   真田昌幸の墓

善名称院

  
寺の門、瓦を飾る六文践の家紋

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