紀州 | 新宮城 |
ファイルNo2491 |
① しんぐうじょう |
道案内 ←駐車場 | |||
伊勢道側からですと、勢和多気JCTで紀勢自動車道に入り、尾鷲北インタを下りていったん国道42号線を進みます。約7km先の尾鷲南インタで熊野尾鷲道路に入ります。約26km先、熊野大迫インタで国道42号線に合流します。約8km先、熊野市の立石南の信号は国道311号線との分岐点です。この信号から約24km先、新熊野大橋を渡った先の速玉大社前の信号を左折し、約600m先を左折すると丹鶴城公園駐車場です。 あるいは、和歌山市側からですと、紀勢自動車道すさみ南インタで下り右折し、県道36号線を南に進みます。約1.6km先、「道の駅すさみ」前の信号で左折し国道42号線に入ります。 約100km先が速玉大社前の信号です。 |
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訪城備忘録 | |||
丹鶴城公園に本丸などの主要部の石垣と主要部北側下の熊野川沿いに水の手・船着き場の石垣が残っています。本丸周辺は切り込みハギの石垣で水野家三代重上が改修し寛文七年(1667年)に完成させた石垣と思われます。熊野川沿いにある水の手・船着き場石垣、主要部(鶴の丸・松の丸)北側側面石垣は打ち込みハギであり、浅野忠吉時代のものかと思います。 船着き場石垣越しに山上の本丸石垣を見上げるとなかなかいい光景です。 |
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新宮は戦国期には堀内氏が支配(堀内氏屋敷)しましたが、慶長五年(1600年)の関ケ原の戦いでは西軍となったために改易され、慶長六年(1601年)、紀州には浅野幸長が入封し、新宮には重臣の浅野忠吉が入り築城しました。元和元年(1615年)の一国一城令で廃城になりましたが、元和四年(1618年)に再築城が認められ再築を開始しました。元和五年(1619年)、浅野家は広島に移封となり、忠吉も三原に移りました。代わって、徳川頼宜が紀州に入封し、新宮には付け家老の水野重仲が入り築城を引き継ぎ寛永十年(1633年)に完成、三代の重上が石塁をさらに改修したとされます。水野氏は明治維新まで新宮を治めました。なお、丹鶴城の別名は熊野別当の娘の丹鶴姫がここに住したとされるためです。丹鶴姫は源為義と熊野別当長快の娘の立田御前の間に生まれ、弟が新宮十郎行家です。丹鶴姫は熊野別当行範に嫁いだとされます。 |
新宮古城 |
堀内新宮城(堀内氏屋敷)3577a 新宮市千種1-9 金龍寺 |
築城時期、築城者は定かではないようです。天正年間(1573~92年)に堀内氏善が築いたともされます。堀内氏は熊野別当の流れを称し、氏善は天正二年(1574年)に家督を継ぎ、天正九年(1581年)に織田信長に従い、天正十三年(1585年)の豊臣秀吉の紀州攻め以降は秀吉に従い、四国攻め、小田原攻め、朝鮮出兵に熊野水軍を率いたとされます。さらに、同じ熊野別当の流れを称した新宮周防守行栄を天正十九年(1591年) に討ちました。慶長五年(1600年)、関ケ原の戦いの際には妻が九鬼嘉隆の養女であった縁もあり、西軍につきましたが、没落します。その後、肥後加藤家に仕官したようです。 |
新宮周防守屋敷(新宮氏屋敷)3577b 新宮市新宮 本広寺 |
南北朝中期以降、熊野別当に代わって熊野を統治した七人衆(七上網)のひとり新宮周防守行栄の屋敷跡です。行栄は源頼朝の叔母にあたる丹鶴姫の弟の新宮十郎行家の子孫とされます。天正十九年(1591年)に堀内氏善に討たれました。 なお、七人衆とは宮崎、簑島、矢倉(鵜殿)、滝本、中曽(中脇)、芝、楠(新宮)の七家で構成され、合議制で熊野を統治したとされます。 <現地説明板より> |
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