播磨 楯岩城



ファイルNo4125


             二の郭南西下残存石垣           

@ たていわじょう 
  別名 太田城 

A住所:揖保郡太子町太田
B目標地点:若王子神社
C形式:山城  D比高:180m 
E現況:山林

F遺構等:郭・石積み・堀切・堅堀・土塁・説明板
G時代/人物:南北朝期/赤松氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  神社から40分

J撮影・訪問時期:2025年03月

  

道案内 

山陽自動車道の山陽姫路西インタを下り、国道29号線(姫路西バイパス)を南下します。約2.5km先でスロープを下り右折し国道29号線ガードをくぐります。その先のT字を左折し県道420号線に入ります。約800m先で国道2号線のガードをくぐります。約600m先で(右手に城跡の標識があります。)路地に左折します。(上太田南橋まで行くと行きすぎです。) 路地を約300m先のゲートを開けて内に入ると若王子神社です。本殿向かって右手に城跡への道の登城口があります。

訪城備忘録

神社から地元の方が整備されたしっかりした登城道が続いています。尾根まで登ると浅い堀切があり、その先にまずわりと広い郭があり、その先にさらに大きな長い郭が登城道の右手上にあります。大きな長い郭の端に沿って長く低い土塁が続きます。この郭にはさらに一段高い郭があります。城としては櫓台ですが、この郭も相当に広く、それだけではない感じです。その先では登城道が屈折し、両サイドに大石が散乱する登り道が続きます。主要部への虎口という事でしょうか。この周辺は城山古墳群ですので、その残材が転がっているんでしょうか。

虎口状の上の尾根には、まずは「花崗岩の大石」があります。磐座なんやろか。この下の通路、斜面は堅堀状の斜面ですがここの通路下に石積みが見られます。道の補強?にしてはと言う石積みです。その先は二の郭・主郭への最後の斜面です。この斜面にも石積みの痕跡があります。

最後の斜面を登ると二の郭です。三角形状の郭で、主郭下には残存石垣がありました。主郭にはテレビ施設が建っていて、土塁が南端に少しありました。東に下りると城山へ向かう尾根道になります。しっかりした尾根道ですが後世の改変でしょうけど、両斜面に竪堀があり、往時は堀切となっていたと思われます。

尾根から戻り、主郭東下から南に廻り込みますとまずは東郭があります。主郭斜面側に節理で割れた大石という感じの石がありますが一部積んであるようにも見えます。さらに南へ廻り込むと、主郭からの斜面には諸所に石積みの痕跡があります。また、南郭群が下に見えますが、今回はおりませんでした。最初に大きな段郭が三つあるようで、その斜面には残存石垣があるようです。 主郭下を南からさらに西の方に進むと規模の大きな残存石垣が二か所あります。高さもあるのですが、戦国後期の石垣というより、ただ積み上げたという感じのものでした。そのまま西へ廻ると二の郭下の階段のところに出ます。

主郭・二の郭周囲には諸所に残存石積みがありますが、無造作に積んであるという感じと節理で割れた大石が入り混じっている感じです。尾根上は城山古墳群を活用されているようで、郭が大きいと感じました。元々が岩山で、加えて古墳群があり、そこに城が築かれたようです。

歴史
主郭と説明板



建武年間(1334年<建武元年>〜38年<暦応元年>)に赤松刑部少輔則弘(赤松則村<円心>の孫)が築城したとされます。則弘は後に広岡五郎と名乗り、広岡氏の祖となり、城は広岡氏の居城でした。嘉吉元年(1441年)、嘉吉の乱の際に落城したとされますが、その後、赤松貞村が居城とし、五代続いたとされます。天正年間(1573年〜92年)初期に羽柴秀吉(豊臣秀吉)に攻められ落城し廃城になったとされます。






堅堀状上の通路下の石積み      主郭下二の郭側残存石垣
現地説明板より
眺望
神社手前のゲート     若王子神社  
  
尾根上の浅い堀切
尾根上最初の大きな郭と向こう一段高い郭の切岸
大きな郭の端の低い土塁
尾根上の巨石(古墳の玄室?の残骸)
両サイドに大石が散乱する登城道
花崗岩の大石
大石下の通路とその下の石積み
堅堀状
堅堀状と通路 
二の郭下斜面と石積み痕跡
二の郭から主郭遠望
主郭北下
主郭北西下<二の郭沿い>残存石積み
主郭東下から
主郭東下尾根・城山への道
主郭東下尾根の堅堀
主郭東下尾根の堅堀
主郭下東郭
主郭南東下<石垣では無いよう・節理>
主郭南東下<石垣では無いよう・節理>
主郭南西下<主郭のすぐ下>
南段郭群を上から<段郭に石積みが残ります>
主郭南下石垣
主郭南下石垣  
二の郭南西下残存石垣
主郭南直下の石垣

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