道案内 |
舞鶴若狭自動車道の三田西インタを下り、三田西インタの信号を左折し県道92号線に入ります。約1.6km先の溝口の信号を左折し県道141号線に入ります。約200m先の溝口北の信号を右折します。約1km先の長坂中学校前の信号を左折し国道176号線に入ります。約1.2km先、四ツ辻の信号を右折し県道309号線に入ります。約1.6km先を左折(本庄小の手前約400m)します。工場沿いを進み約500m先T字を左折します。約100m先の山裾で、石垣のある水堀と左手に民家があって、左に道があります。ここを入ると貯水池そばになります。この右手のゲートから山に入ります。
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訪城備忘録 |
ゲートを入り、まっすぐな道ではなく、やや右手の尾根先端から斜面を登るか、ゲートからフェンス沿いに右手に進み、次のゲートのそばから山に向かうと藪は少ないです。(古道跡があります。) わりとゆるやかな斜面を北に向かって登りますが、整備されていない木々は多いです。
最初の浅い堀切から上が城域と言う事でしょうか? 斜面の段郭状と浅い堀切をもうひとつ越えるとわりと広い中間郭に入ります。背面は高い切岸となっていて、郭両サイドに登り土塁状の袖土塁があります。ここを登り、小郭をふたつほど越えるとまた浅い堀切があります。 さらに斜面を段郭3つほど越えるとこの城で一番明瞭な堀切があります。 この堀切を越えると副郭と主郭です。副郭はほど藪でした。主郭の北側に低い土塁跡が確認できます。主郭背後には最後の堀切があります。主郭と堀切底の高低差はそこそこありますが、堀切自体は不明瞭になってました。
全体的には遺構が風化した感じです。各堀切端の郭には低い土塁があるのかもしれませんが不明瞭でした。ただ、遺構の存在は確認できます。三田では最大の城域を持つ城と言えるのでしょうね。
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水堀と石垣
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築城時期、築城者は不明のようですが、永禄年間(1558〜70年)には森鼻氏が居城としていたようです。元亀元年(1570年)には森鼻越前守、森鼻左衛門大輔の名が確認できるようです。その後、天正三年(1575年)〜天正七年(1579年)頃?、荒木村重に攻められ落城したとされるようです。
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